「個性を尊重する」ってどういうこと?

久しぶりだね! 前に話したのは……

うにくえ

2022年の4月だから、約1年前だね。

 

結局、個性ってどこにあるの?——これまでの記事を振り返って考えてみた

あっという間だね。

うにくえ

振り返りをするんだよね? 普通、ちょうど1年になったタイミングで振り返るものじゃない?

 

まあまあ、そう言わずにさ。思い返してみれば、この約1年間にもたくさんの方に取材させてもらいました。

うにくえ

改めて取材に応じてくださったみなさんに感謝しなきゃね。そういえば、シンプルなインタビューではない、ちょっと新しい取り組みもしてたよね。たとえば、今井 祐里さんをお迎えしての哲学対話とか。

 

多様性が大事なのは、「メリットがあるから」?——哲学対話を通して「多様性とは」に向き合ってみた

そっか。あの記事もこの1年の間の話か。

うにくえ

多様性をテーマに、「どのような問いを立てるのか」から考えていたよね。対話を通して「ぼくたちは何者として『多様性は重要である』と言っているのだろう」とか「そもそも、なぜ多様性は重要なのか」という問いを立てて、みんなであれこれ言いながら、答えらしきものに迫っていく様子は見ていて楽しかったよ。

 

対話の内容ももちろんなんだけど、特に印象的だったのは、今井さんが「『人それぞれ』禁止」というルールを設けていたことなんだよね。哲学対話を実施した少し前に取材をした、社会学者の石田 光規さんがおっしゃっていたことと通じる部分があるなって。

うにくえ

「人それぞれ」という言葉は、相手を尊重するための言葉に聞こえるけれど、その実、歩み寄る余地をなくしてしまい、それぞれを孤独にしてしまうというお話だったね。たしかに、「まあ、人それぞれだからね」という言葉には対話を終わらせてしまう力があるなと感じたなー。

 

「多様性のある社会」が、私たちを孤独にする?——社会学から考える、「人それぞれ」にひそむ罠

そうそう。「個性を尊重しよう」と口にするのは簡単だけど、実際にそうするのって簡単じゃないというか、そもそも「個性を尊重する」ってどういうことなんだろうと考えさせられたな。それに、過去に聞いたお話がどんどん繋がっていくような感覚があって楽しかったというか。

うにくえ

テーマを絞り、さまざまな方にお話を聞いていくと、ばらばらに見えた知識が繋がる瞬間があるよね。

 

映画、ドラマ、音楽から考える「個性」

新しいチャレンジといえば、ライター/編集者の稲田 豊史さんと読者のみなさんを招いての座談会も印象に残っているなー。

うにくえ

映画やドラマなどを早送りやスキップをしながら観る人が増えている背景には、「個性的であらねばならない」というプレッシャーがあるのではないかという稲田さんの分析を元に、みんなでコンテンツ受容の実態と「個性」の関係について考えてみた企画だよね。

 

恋愛リアリティショーは「情報」として観る?——早送り・スキップ視聴の裏に隠された、「個性の呪縛」を考える

稲田さんが、SNSが普及したことによって、「自分らしさ」が認識しづらくなったのではないかというお話をしていたよね。稲田さんの言葉を引用すると……。

僕の学生時代、SNSは存在していませんでした。だから、自分の世界は良くも悪くも教室内、広く見積もっても学校内で完結していたわけです。これは、比較対象が同じ教室内か、学校の中にしか存在しないことを意味します。

だから、「自分らしさ」を認識しやすかったと思うんです。たとえば、ある漫画について詳しい人がいたとして、その知識量がクラスメート40人、あるいは学校にいる数百人の中で一番だったら、その人は自分の世界の中で「最もその漫画に詳しい人」になれるわけですよね。その認識は、強いアイデンティティになります。

しかし、SNSの登場により、世界は大きく広がりました。インターネット上には、数え切れないほどの比較対象があります。要は、常に「世界ランキング」への参戦が強制されているようなもの

うにくえ

たしかに、「この分野に関する知識は誰にも負けない」という認識は「自分らしさ」につながる気がするよね。でも今は、SNSによって世界が広がったからこそ「誰にも負けない」とは感じにくい。

他方で、特にゆとり教育が開始されてからは、個性を持つことの重要性が強調されてきたわけだよね。「個性は大事」なのだけれど、比較相手が増えすぎたことによって、自分の個性がわかりづらくなってしまっている。そういった環境が、早送りやスキップ視聴の普及につながったのではないかというお話だったね。

 

さまざまなコンテンツの受容スタイルだけではなく、「中身」にもその時代々々における「個性」のあり方が反映されているというお話をしてくれたのが、音楽ジャーナリストの柴 那典さんと哲学研究者の戸谷 洋志さん。

うにくえ

この対談もとてもおもしろかった。90年代半ば以降——これはゆとり教育のスタートとほぼ重なるわけだけど——「自分らしさ」や「自分探し」という言葉がメディアを賑わすようになり、大衆音楽であるJ-POPにも、それらをテーマとする楽曲や歌詞が増えてきたというお話だったね。

 

なぜJ-POPアーティストたちは「自分探し」ばかりしているの?——哲学者と音楽ジャーナリストが読み解く、J-POPの中の「自分らしさ」

美空ひばりさんに始まり、Mr.Children、SMAP、乃木坂46、Official髭男dism……さまざまなアーティストの楽曲の歌詞を見てみると、たしかにその時代の鏡のようになっているなと思ったなー。

「自分は何者なのか」という問いを考える

うにくえ

戸谷さんはMr.Childrenの「名もなき詩」に出てくる“自分らしさの檻”というフレーズについて、こんな解説をしてくれたね。

 
自分らしさとは何かを追い求めようとすると、かえってその自分らしさにとらわれて、自分の可能性を狭めてしまう。けれど、そうすることでしか、自分が何者であるかを知ることができないのが苦しい……ということ

うにくえ

多くの人が「自分は何者なのか」を知りたい、あるいは「何者かでありたい」という願望を持っているということだと思うのだけれど、この「何者」という概念に踏み込んだ企画もあったね。

 

作家である麻布競馬場さんとライターの佐々木チワワさんの対談だね。

東京は永遠に、あなたを「何者か」になんかしてくれない——Twitter発小説家と歌舞伎町ライターが「若者と東京」を語る

うにくえ

そうそう。「何者かになりたい」と上京する人は多いけれど、その願いがいつしか「何者かにならねばらない」という“個性の呪縛”に変わってしまうのではないか、というお話だったね。

 

麻布競馬場さんがおっしゃっていた“「何者かになりたい」と思っている時点で、ゴールがわかっていないわけだから、結局どこにもたどり着けないのではないかと思う”という意見はもっともだなと思ったね。

うにくえ

「何者かになりたい」と思っているということは、「今はまだ何者でもない」という認識が前提にあると思うのだけれど、生物学者である小林 武彦さんは「生物学的には、他者を傷つけるもの以外の特徴はすべて『個性』」だとした上で、こんなことをおっしゃっていたのが印象的だったな。

 
個性とは社会を維持し、発展させるために必要なもの。これらのことを合わせて考えると、「誰かを傷つけずに生きていること」それ自体が、個性的に生きるということだと思いますし、それがどのような生き方であれ、社会に貢献していると言えると思う

「死」が生物の多様性を育み、「言葉」が人の個性を守る——生物学者と考える、すべての個性が尊重される社会をつくる方法

これも麻布競馬場さんがおっしゃっていたように、「『何者』という概念自体が曖昧なもの」なのだけれど、もしそれが「他の誰とも違う、唯一無二の存在」みたいなことなのだとしたら、ぼくたちは生まれた瞬間から「何者かになれている」と言えるのかもしれない。

うにくえ

こういった見方もあると知ると、少し楽になれる気がするよね。「自分は何者なのか」あるいは「『自分らしさ』ってなんだろう」という問いや悩みからすぐに解放されるわけではないだろうけれど。

 

個性や多様性をめぐる探求に終わりはないってことだね。

うにくえ

その通り。まだまだいろんなアプローチがあるだろうしね。そのうち、また話そうよ。今度はきりのいいところでね。

 

まあ、話したくなった時に話せばいいじゃない(笑)。

[文]鷲尾 諒太郎 [編集]小池 真幸