「人それぞれ」は禁止。意見は“乗り換え”自由

鷲尾

今回の哲学対話でテーマにしたいのは、ずばり「多様性」です。進め方を今井さんに教えていただきながら、多様性について考えを深めたいと思っています。

今井

よろしくお願いします。まず、哲学対話のルールを紹介しますが、一定の型はあるものの、厳密な「公式ルール」があるわけではありません。主催者がある程度自由に設定する、いわば心構えのようなものだと思ってください。

 

ルール①:「人それぞれ」は禁止

今井

まず、「人それぞれ」で話を終わらせることはなしにしたいです。大人どうしで哲学対話をしていると、「これは人それぞれなんですけど」と前置きしたり、盛り上がっている議論に「でも、それって人それぞれじゃないですか?」と水を差してしまうことがあって。せっかく集まって対話をしているわけですから「人それぞれ」を前提にしたうえで共通する部分を探そうよ、という意図をこめています。

 

小池

先日『うにくえ』で早稲田大学の石田 光規先生にインタビューをした際、「人それぞれ」が孤独を生んでいるというお話をお聞きしました。「人それぞれだよね」と言った途端に対話は終わってしまい、相互理解が進まないと。

「個の尊重」は、相手の意見や考えを理解することが出発点だと思います。「人それぞれ」という言葉は、相手を尊重するための言葉に聞こえますが、その実、歩み寄る余地をなくしてしまい、それぞれを孤独にしてしまうというお話でした。

鷲尾

便利だから、ぼくも言いがちな言葉だけれど……。今日は頑張って言わないようにしないと。

ルール②:人の話をよく聞く

今井

もうひとつ大切にしたいのが、人の話をよく聞くことです。ただ話を最後まで聞くだけでなくて、話し手が言いよどんだり、言いたいことがわからなくなってしまったりしたとき、「こういうことが言いたかったのかな?」と一緒に理解しようとすることも含まれます。

自分と違う意見であったとしても、「この人はどうしてこんな考え方をしたいんだろう」という視点で対話をするのも「よく聞く」ことだと思っていて。これって、実は一番むずかしいですよね。

 

ルール③:意見が変わることを恐れない

今井

あとは、意見が変わることを恐れないことです。私は、意見を乗り物にたとえることが多いですね。

 

中山

乗り物ですか、面白いですね。

今井

哲学対話は何かしらの答えを出すことが目的ではありませんが、参加者全員が納得できる「答えめいたもの」に近づくことはできる。まだ見ぬ“目的地”を探しながら自由に考えるためにはどんなものに乗ってもよくて、お気に入りの車に乗り続けてもいいし、途中で電車に乗り換えてもいい。意見が変わることを恥ずかしがらず、楽しんでほしいと伝えています。とにかくお互いに質問しあって、話すことですね。誰が話し手・聞き手という分担もありません。

 

日常の中に「多様性」はある?

今井

ルールを説明したあとは、対話のテーマと関連する問いをお互いに出し合います。今回のテーマは「多様性」ですが、それだけでは何を話していいかわかりませんよね。そこで、みんなで考えてみたい疑問や気になることを共有して、「テーマに対して、どんなふうに問いを深めていくか」を探っていきます。

私は、みなさんにとって「多様性」がどれくらい日常的な言葉なのかが気になっています。生活のなかで偏見やバイアスに気づくことはあるけれど、「多様性」というキーワードを意識することって実はあまりないな、と思っていて。いかがですか?

 

小池

そうですね。飲み会を開くにしても「今回は多様性のあるメンバーを集めよう」って言わないですよね?

鷲尾

たしかに言わないね(笑)。日常的なシーンだと、「多様性がない」とか「多様性にとぼしい」といったような、否定系の言葉をくっつけて使うことが多いような気がしていて。

たとえば、自分が所属している会社の組織について語るとき「うちの会社って多様性がないよね」と言うことはあっても、「うちの組織は多様性に満ちている」と言うことってあまりない気がしません? 「ない」は感じられても、「ある」は感じにくいのかな?

今井

ここでいう「多様性がない」は、組織のメンバーの年齢、性別、国籍とか、属性が偏っていることに対する指摘ですね。

 

中山

そうそう。組織の多様性を考えようとすると、属性ばかりに目が向いていることが多い気がします。メンバーの性別・年齢・国籍はバラエティに富んでいても、持っている価値観や能力の水準はほとんど同じかもしれない。それって本当に多様性のある組織なんでしょうか?

ちょっと話は違うかもしれませんが、経営者や人事にインタビューをすると、必ずと言っていいほど「ウチの会社ではこんなふうに多様性を大切にしています」という話が出てきます。もしかすると、「多様性」は外に向けた言葉として使われているのかも。

小池

そういった際に想定される多様性って、「みんなにとって居心地がいい」イメージだと思うのですが、多様性のある状態って、個々人にとっては必ずしも快適ではないこともあると思っていて。自分と考えや好みなどが違う人びとといっしょにいるのって、大変じゃないですか。なのに、その側面についてはあまり語られませんよね。

身近な例だと、ぼくは街でマスクをしていない人を見かけると、法律上はダメではないはずなのに、反射的に「うっ」と感じてしまうんです。でも、マスクをしない自由も認めるのが「多様性がある社会」ともいえるかもしれない。ぼくもそれはわかっているはずなのに、「うっ」と思ってしまうと「多様性」の難しさを感じます。

中山

ぶっちゃけ、自分と似たような人に囲まれているほうが居心地がいいですもんね。でも、一歩引いて俯瞰的な視点を持ったとき、「それじゃよくないよね」と多様性を意識する。だから、「多様性がない」という否定的な言葉づかいになるのかもしれません。

鷲尾

「多様性のある社会を実現すべき」と語るぼくは、いったい“誰"なんだろうという気がしてきました。個人として言っているのか、はたまた「地球市民の一人」としての発言なのか……。

多様性に関する疑問から生まれた4つの問い

今井

いくつか問いの筋が見えてきましたね。整理しましょうか。

 

問い①:多様性を語る視点

今井

多様性が大事とか、多様性のある社会を実現すべきとか言っている「私」は誰なんだ? という問いですね。一歩引いた、メタな視点ではないかという意見がありましたね。

 

問い②:多様性の内実

今井

そもそも、どんな状態であれば「多様性がある」と認めることができるでしょうか? 集団の大きさや性質によって、目指される多様性の内実が変わることもあるかもしれません。

「多様性」のふたを開けた中身について話が出ましたね。「多様性があります」という組織でも、属性がバラバラなだけで考え方は同じだとしたら? 逆に、たとえば構成員が全員男性なら、考え方がバラバラでも多様性はないのでしょうか。

 

問い③:「他者を尊重する」とはどういうことか

今井

「多様性のある社会を実現するために、一人ひとりの違いを尊重しよう」とは言うけれど、それって具体的には何をすることなのでしょうか。

たとえばコロナ禍にもかかわらず、公共の空間でもマスクをしたくない人がいたとして、その人のどんな振る舞いまでを、どんなふうに受け入れ認めていくのか。「尊重する」という行為をめぐって、許容できることとできないことの境目がどこにあるのか、またその線引きをすること自体の正当性をどう担保できるのか、といったことを問えると思います。

 

問い④:多様であることは、本当に居心地が悪いのか?

今井

「多様性は個人にとって居心地が悪いこともある」という意見は、納得できる一方で、疑う余地もある気がします。仲のよい友達とだけずっと一緒にいるのは気が楽だけれど、その輪に新しい人や考え方の全く違う人が入ってきて、別の楽しさが生まれることってありますよね。嬉しい多様性とそうでない多様性があるとして、その違いは何なのでしょう。

多様性を考えるに際して、自分自身が感じる居心地のよし悪しをどう扱うとよいのか、と少しメタな視点から考えてみても面白いと思います。

 

鷲尾

どれも面白そうですね。

中山

「多様性を語る視点」については、一人だと答えが出てこなさそう。みんなで話してみたい問いです。

小池

対話の土台になりそうですね。

今井

他の人がどう思っているか知りたいテーマですね。では、1つ目の「問い」からはじめましょうか。

 

多様性が大事と語る「私」は、いったいどの「私」なんだろう?

鷲尾

個人としての自分、家族としての自分、会社の一員としての自分……。多様性を語るとき、ぼくはいったいどの視点に立っているんだろう。

今井

Yahoo!知恵袋のような質問サイトを見ていると、「なぜ多様性を認める必要があるのですか?」という質問に対して、生物多様性の考え方を応用した回答をよく見かけるんです。

「いわゆる障害とされる特性も、今の世の中でそう定義されているだけ。違う時代になったら、その特性が人類にとって役に立つかもしれない。だから、少しでも多様性を担保しておくことが大切なんだ」みたいな内容で。ベストアンサーになっていることもあるので、きっと多くの人にとって「なるほど」感があるわけですよね。

 

中山

当事者の視点ではなさそうですね。メタ的な、「大いなる意思」のようなものを代弁している感じ。だから納得しやすいのかも。

今井

人類という種の保存を意識しているイメージですよね。

 

鷲尾

それもよくわかるんですけど、ぼくが実感を伴って「多様性は大事だ」と思う視点とは違う気がします。個人的には「種の保存のため」というより、「誰かが理由のない迫害を受けるのは嫌だな」と思うから、多様性が大事だと感じる。

もちろん、身近な友達がひどい目にあっていたら、自分ごとのように怒りを感じると思うんですけど。そうでなくても、誰かががそこにいるだけで損をすることがなければいいなって思うんです。

今井

それは、切実に多様性を求めている「私」とのタッチポイントですね。多様性がないことに対して「おかしい」「何で?」と憤るのは、当事者らしい感情ですよね。

 

私たちは有用性の「病」にかかっている

今井

一方で、私たちは多様性を担保する理由を語るために、有用性の話をしなくちゃいけない「病」にかかっているような気がしています。

「車の安全性を試す実験に女性型のマネキンが使われておらず、女性のほうが自動車事故の負傷率が高い」という記事を読んだことがあります。安全の合格ラインが男性の体を前提にしているので、実際に事故が起こってしまったとき、体格の小さい女性の負傷リスクが高まるということらしいのですが......。たしかその記事はジェンダーバイアスが実害をもたらしている、という趣旨の話でしたが、多様性の話にも通じるところがあるように思うんです。

つまり、いろいろな体格に対応できるようにシートベルトを作っていたら、体の小さい男性だって安心だし、助かる人が増える。だから、安全の合格ラインも多様な身体を前提にするべきなんだと言えそうです。

「多様であることは、有用だから重要」。たしかにそうなのですが、そもそも多様である私たちが、多様性に価値づけをしなければならないということ、そしてさらに、価値づけのために有用性のロジックを持ち出したくなってしまうことに、そこはかとない違和感があって。

 

中山

うーん、たしかに。そう言われてみると、有用性に結びつけて語りがちかもしれません。

今井

さきほどの種の保存みたいな考え方も、「いや、多様性は認めたほうがいいでしょ」と素朴に主張しても、「なんで?」という問いに耐えられないから、「いつか人類の役に立つかもしれない」と万人にとっての有用性に結びつけているのではないかと。

 

小池

ぼくは有用性の話をするとき、「人類視点」に立っている感覚があります。たとえば「バリアフリーな社会」が実現されたとしても、いわゆる「健常者」であるいまのぼくが直接的なメリットを感じることはないかもしれません。

それでも、ぼくはバリアフリーな社会のほうがいいと思っている。その理由を考えると、ぼく個人の視点というよりも「いつ障害を持つことになるかわからない、平均的な人類」をイメージしている気もします。

今井

なるほど。自分に直接的に関係がないように思われる事柄を「私に関係すること」に引き寄せようとするとき、「人類」みたいな視点から役に立つポイントを探したくなるのかもしれませんね。

 

多様性にロジックを求めてしまう、つつましい私たち

小池

その点で、自分ではない誰かのために怒りを覚える、義憤の感情はどう説明すればいいのでしょう。ぼくは、ブラック企業でパワハラ上司に苦しめられている部下をテレビドラマなんかで見ると、けっこう本気でイライラしてしまって(笑)。

今井

テレビドラマでも?

 

小池

そう、ドラマでも(笑)。自分が同じ状況に置かれているわけでもないし、一人で怒ったところで誰かのメリットになるわけではないけれど、感情的になってしまいます。

中山

私も、有用性とは関係なく、単純に感情的に嫌なことがたくさんあります。例えば、女性向けの啓発ポスターで「表現にピンと来ないな、なんだか嫌だな」と思ったら、運営側がおじさんばかり……なんてことがあるんですよね。

でも、ムカつく気持ちは有用性で説明できないから「なんだか嫌だったな」とモヤモヤだけが残る。自分がマイノリティな立場に置かれたとき、多様性がないことに怒りを覚えることが多い気がします。

一方で、勝手な話なんですけど、私がマジョリティの立場で多様性に配慮するときの気分はダイエットに近いんです。「本当は三食ラーメンが食べたいけど、太るし健康に悪いからサラダも食べよう」みたいな、そういう気持ちで多様性に向き合ってしまう反省があって。

今井

メタな視点から采配を振るようなイメージがある?

 

中山

そうです、そうです。「節制すれば、体重が減るぞ」といったような気持ち、つまりは「有用性があるから」をベースに考えている気がします。自分の立場によって、多様性に対する姿勢が変わっているのかもしれません。

今井

お二人のおかげで考えが整理されてきましたね。多様性を求める主張は、自分が何かしらの不利益をこうむっている立場に置かれていると言いやすい。「私はいま足を踏まれています。その足をどけてください」というシンプルな主張でいいから、ややこしいロジックはいらない。

一方で「自分にメリットがないけど、やらなきゃいけない」立場のときには、当事者でない弱みが頭をもたげてくる。自分の采配がいかに正しいかを論理立てて説明しなきゃいけない場面も出てくるから、みんなにとっての有用性の話をしてしまう。自分が被害を受けていないと素朴に主張できないっていう……。意外とつつましいですね、私たちって(笑)。

 

鷲尾

ぼくはかつてある会社で人事の仕事をしていたのですが、人事が組織の多様性について話をするときも、采配できる立場だから有用性につながるロジックを使って主張するのかもしれませんね。

「組織の多様性がないと、イノベーションが起きない」とか、「女性の管理職を3割にしないと株主に怒られる」だとか。感情的に「いやいや、こうしたらよくない?」と主張することがあってもいいような気がしますが、実際には感情的な意見が通ることはほとんどないと思います。

感情ではなく、ちゃんとみんなの役に立つのだと必死にロジックを組み立てている……。たしかに、なんともつつましい話ですね(笑)。

「多様性」をテーマに始まった哲学対話。前編では、多様性にまつわるさまざまな疑問を持ち寄りながら、多様性を語る「私」の立場によって視点が変わることが明らかになりました。後編では、異なる多様性を持つ人どうしが対等に話をするための「共通言語」を探っていきます。よりよい対話をおこなうために、私たちは何を大切にすればよいのでしょうか? 思考とモヤモヤがさらに深まる後編もお楽しみに。

[文]中山 明子 [撮影]須古 恵 [編集]鷲尾 諒太郎