「個性」は自分の"中”にはなかった

いつも『うにくえ』にはいるけれど、こうやって話すのははじめてだね。

うにくえ

そうだねー! いつか記事に登場してみたいと思ってたからうれしいよ!

 

これまで『うにくえ』ではいろんな人にお話をうかがってきたわけだけど、ここらでちょっと振り返りをしてみたいなーと思って。これまでの記事の中で気になるものってあった?

うにくえ

うーん……全部(笑)。どれも「なるほどなー」って思いながら見ていたし、「これが特に気になった!」って、一つの記事を選ぶのは難しいなー。

 

そうだよね。じゃあ、ちょっとテーマを絞ろうか。「個性」や「自分らしさ」あるいは「多様性」についてさまざまな角度から考えてきたわけだけれど、結局、「個性とはなにか?」がいまいちピンときていなくて。この問いを考えるにあたって、参考になった記事は?

うにくえ

それでも一つに絞るのは難しいけれど、ぱっと思い出したのは、人類学者の磯野 真穂さんにお話を聞いた記事かな。

 

個性はあなたの『外』にある──他者とのかかわりの中に「自分らしさ」を見出す、人類学のまなざし

たしかに、とても印象的なお話だったね。

うにくえ

自分の“中”ばかりに注目していても個性は見つけられない、というお話だったね。「自分らしく生きるためには、何が重要だと思いますか?」と聞いたとき、磯野さんはこう答えてくださった。

 
「個性」や「自分らしさ」を求めて、自分の内面に向き合うだけでは、答えは出てこないでしょう。「個性を活かす」あるいは「自分らしく生きる」ということは、「他者とともにある」ことでのみ可能になると思っています。他者と関係する中でこそ、個性は発見される。

うにくえ

「他者と関係することで描き出される、その人自身の命の軌跡」、人類学でいうところの「ライン」にこそ「自分らしさ」がやどるって話は、新鮮だったなー。

やっぱり「自分らしさ」って、自分の“中”にあるイメージがあるじゃん?

 

うんうん。ぼくも磯野さんにお話をうかがうまでは、「個性」や「自分らしさ」は性格とか趣味とか遺伝子といったような、自分の“中”にあるものにやどることを前提にしていたような気がするけど、磯野さんはその前提をひっくり返してくれたよね。

うにくえ

“外”にある、友人たちとの関係性や、他者とどのように付き合ってきたかといったような「関係の履歴」のようなものが「自分らしさ」なんだと。

 

人類学と脳神経科学、実は同じことを言っていた?

取材中、「なるほど! そういう考えがあったか!」って思ったよ。

うにくえ

それでね、脳神経科学の見地から個性についてのお話をしてくれた、青砥 瑞人さんも、磯野さんと近いことを言ってるなーと思ったんだよね。

 

すべての脳が、絶対的な個性を持っている──記憶と脳のネットワークから紐解く、「自分らしさ」の正体

ほう。それぞれ人類学と脳神経科学のお話だったけど、共通点があると。一見するとぜんぜん別の話に思えるけど、どういうことだろう?

うにくえ

青砥さんは、すべての脳には絶対的な個性があると言っていたよね。その根拠は「記憶」にあると。記事からちょっと引用すると……。

 
人は生まれた瞬間からさまざまな器官を通して、外部の情報に触れることになる。その情報は神経を伝い、脊髄を通って脳の中の神経細胞に独特のシグナルを送ります。それが、記憶として脳に蓄積されていくわけですが、そのシグナルは細胞分子を物理的に変化させているんです。

具体的には、特定のシグナルが頻繁に送られると、脳の中のある細胞分子が太くなったり、シグナルを受け取るレセプターの場所が変わったりする。こういった、脳の細胞分子のミクロな構造変化こそが、「記憶」の正体です。

そして、たとえ一卵性双生児として生まれた2人だとしても、まったく同じ情報に触れ続けることなんてあり得ませんよね? すべての人にとって、その人が見聞きし、触れ、感じたことの「記憶」は完全に固有なものであるはず。だからこそ、ミクロレベルでは「同じ」脳なんて存在せず、すべての脳が個性的だ、と言えるわけです。

うにくえ

誰一人として同じ「これまで」を経験してきた人はいないということが、「すべての脳が絶対的な個性を持つ」根拠になっている。

磯野さんは「人が描き出す命の軌跡」を、人類学では「ライン」と呼ぶんだと教えてくれたよね。ラインの独自性こそが「自分らしさ」につながっているんだと。そして、この「ライン」を「記憶」に入れ替えてみると……。

 

なるほど。青砥さんが言っていることに近くなるかもしれないね。するどい……。

うにくえ

サイトの中でふわふわ浮いているだけだと思ってた?

 

……。

うにくえ

失礼な人だなー。だてにここのキャラクターをやっているわけじゃないんだよ(笑)。

 

「いまの自分」ばかり見ていては、自分らしさに気づけない

おみそれしました(笑)。

うにくえ

わかってくれたならよしとしよう。もう一つ、近い話があったなと思ってて。哲学者の山内 志朗さんのお話がそれなんだけど。

 

結局、「私」って何なんですか?──哲学者と紐解く、私たちが「自分探し」を続ける理由

おお、今度は哲学。

うにくえ

この記事はタイトルの通り、「結局、私って何なんですか?」という問いをぶつけていたね。よくこんなに抽象的で、シンプルなんだけど答えるのがすごく難しそうな質問に答えてくださったなと思いながら見ていたけど。

 

ほんと、いま考えたらかなりのむちゃ振りというかなんというか……(笑)。

うにくえ

感謝しなきゃね。それで、山内さんはそんな質問に対して、3つほどの答えを提示してくれていたけど、その中に「『私』とは、ハビトゥスである」という回答があったよね。

 

よく覚えているよ。ハビトゥスとは何かというと、山内さんはこう説明してくれていたね。

ハビトゥスとは、中世哲学で盛んに用いられ、フランスの社会学者であるブルデューが復活させた概念で「日常生活の中での認知や行動、物事に対する評価などに表れる傾向であると同時に、その傾向を生み出す構造」だととらえてください。ハビトゥスは「身体化された必然」であるとされています。つまり、生まれた瞬間から、日常生活を送る中で無意識のうちに獲得していくものなんですね。

「無意識のうちに所有している、習慣的に発揮できる能力」と言い換えてもいいかもしれません。「マラソンランナー」と言われている人について考えてみましょう。マラソンランナーたちは、常にマラソンを走っているわけではありません。立ち止まっているときもあるし、歩いている時間もあるけれど、「マラソンランナー」と呼ばれるわけです。

それがなぜかと言えば、その人がマラソンを走る能力を備えているからですよね。やや回りくどい言い方をするならば、「その人がマラソンを走ろうと思えば、走りきれる能力を潜在的に備えている」から、その人はマラソンランナーなんです。

うにくえ

そして、山内さんは“私たちはハビトゥスによって「何者であるか」を規定されているわけですね。生まれた瞬間からいまこの瞬間までの間に獲得してきたハビトゥスこそが、「私」なのだと言えると思います”と言っていたね。

細かなニュアンスは違うとはいえ、ハビトゥスもまた「ライン」や「記憶」のように、それぞれの人の「これまでの足跡」から生まれるもの。

 

人類学、脳神経科学、哲学……学問としてはバラバラだけれど、みなさんが言っていることには共通点があるのかも。

うにくえ

でしょ? 「個性」や「自分らしさ」を探そうとするとき、みんななんとなく自分の性格だったり、考えだったり「いまあるもの」に目を向けてしまいがちだと思うんだけど、それだけでは見逃してしまうものもあるんじゃないかと思ったなー。

 

どんな人と、どんなことをしてきたのか、そのときどんな言葉をもらったのか。あるいは、これまで何を見て、聞き、何を感じてきたのかに目を向けてみると、意外な発見があるかもしれないね。

うにくえ

そうだね。でも、それももちろん「個性」や「自分らしさ」を知るための一つの考え方でしかないとは思うけど。

 

おっしゃるとおりだと思います。まだまだいろんな角度から掘り下げて考えていかなきゃいけないね。ちなみに、君はこれまでどこで何をしてきたの?

うにくえ

それはまだ教えられないなー。

 

めっちゃ気になるんだけど……。

うにくえ

ふふふ。まあ、たまにこうやっていろんな記事を振り返っていくなかで、話すこともある……かなあ?

 

[文]鷲尾 諒太郎 [編集]小池 真幸