儀式やルール、やっぱり面倒じゃないですか?

町内会の運動会や社内の飲み会が減るなど、儀式は減っているのかなと思います。

磯野

たしかに共同体としての儀式は減ってきていますよね。でもルーティンはむしろ勢いを増しています。

 

ルーティン?

磯野

「イチローのルーティン」とか。あれは儀式です。儀式すら個人化されているんですよ。

 

「自分らしいモーニングルーティン」とかありますね。

磯野

自分だけの儀式なんですよね。自分の能力を伸ばすための儀式です。

 

成人式や入社式のように、儀式には立場の変化や節目を実感させる働きもありますよね。一方で、そうした区切りや枠をなくそうという考え方もあります。磯野さんは、「境界をなくす」という言葉が気になったそうですが。

磯野

『急に具合が悪くなる』と『他者と生きる』の刊行の後、「境界をなくす」「複雑性に耐える」といったことを語ってほしいという依頼とか、そういうことの大切さを語る献本などをいただいたりするようになりました。もちろんありがたいことなんですが、ちょっと違和感を抱くこともあります。

もちろん、境界があることによる弊害はあります。複雑性に耐えることができずに、わかりやすい答えに飛びついてしまうことの問題もあります。ただ、人間は言語を使う動物です。そして言語は、世界に境界を設けるための道具でもあります。

 

「境界をなくす」「複雑性に耐える」は、やさしい言葉?

言語が境界を作る…。

磯野

言語は分類をするツールです。黒と白は違う、黒と灰色は違うというように、人間は言語を使って分類して、境界を作ってるんですよ。そして人間は、際立って言語を発達させてきました。

前提として、人間は混沌とした世界の中で、言語を使って分類を施すことによって世界の秩序を作り、安定させて暮らしています。境界をなくすことが必要な場面もありますが、「境界をなくす」ことを手放しに称えるという姿勢は、人間が持つ特性を少し忘れすぎではないかと思います。

 

なるほど。「複雑性に耐える」はどうでしょうか。

磯野

「複雑性に耐える」「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉もとても流行っています。でも私は、人間というのはそもそも、複雑性に耐えられない動物だと思います。だからこそ分類を施す。分類せずぐちゃぐちゃにしているとわかりにくいから、整理整頓して、そこに名前を付けてるんです。複雑性を減らしているんですよね。

けれども当然、分類してもどこにも当てはまらないものって出てきます。人間が任意に境界線を引いてるのだから、絶対的なものはない。でも分類をすることで社会を作っているので、分類を否定的にみた上で、「複雑性に耐えろ」というのは、やさしいようで厳しい指令だと思います。

「わかりやすい答えに飛びつくな」といった本もありますが、私たちは答えを出しながら日々生活しています。複雑なままでは、何も進まない。だから、どんな答えに飛びつくかが問題だと思うんです。

 

飛びつく先が問題。

磯野

はい。飛びつくこと自体は、人間がそもそもやることなので。ただネガティブ・ケイパビリティという言葉がこれほどもてはやされること自体、現代社会の特徴的なあり方を反映していると私はとらえています。これも、『社会が壊れるその前に』の執筆のきっかけの1つです。

 

「飛びつくな」と言う人自身が正しいと感じる答えを相手が選ぶ分には、「飛びついた」とされないのではないかと思います。

磯野

おっしゃる通りですね。

 

対話で解決できるのか

意見が異なるときも、最後は「対話しましょう」という話になりがちです。でも、対話でうまくいくのでしょうか。

磯野

対話が大切なことは重々承知の上で言いますが、あまりにも対話が礼賛されているという認識の立ったうえで、対話礼賛の風潮の中には、メアリ・ダグラスが言う「ゼロの欲望」が潜んでいることを指摘したいと思います。つまり境界を取り払って、何も分類することなく、ありのままで全人的に向き合い、心の内から出てくる言葉を交換し合うと、何か素晴らしいものがあらわれて、問題が解決し、結果として美しい社会が立ち上がるという発想ですよね。

哲学者の永井玲衣さんが「哲学対話」をやっていますが、永井さんのやり方にも、時間を決める、対面で集まる、一人ずつ話すなど枠があります。完全な自由ではなく、枠はまずもって用意されていて、そこから言葉が立ち上がる。

また、対話で何かが解決することもあるし、それは素晴らしいことですが、対話が持つ可能性が常に企業の中で花開くわけではありません。永井さんの対話のように一度集まったら解散する「組織」ではなく、持続性のある組織の場合、必ず利害関係が生じます。そうすると対話とは名ばかりの空気の読み合いが発生することもあるでしょう。対話は大事でパワフルなツールですが、対話さえすれば解決すると考えるのは、現代社会の自己礼賛思想と同じです。

 

枠をなくした先に、別の枠がある

他者と関わりたくないという人が増えていると聞きますが、自己礼賛に偏らずにいるためには、他者の存在が必要ではないかと思いました。

磯野

ダグラスは、人間が制度やテクノロジーによって一方的に動かされている感覚を抱くとそれが疎外感となり、たとえば「権力を倒せばいい」というような極端な考えにつながりやすいと話しています。

ダグラスは、社会における人間のつながり方として、「高分類社会」「小グループ」「強グリッド社会」という3つの類型を示しています。それぞれに強みと弱みがあるんですよね。

 
グループは集団のまとまりの強さ、グリッドは集団内での個人の立ち位置や行動を規定する枠組みを指す。「強グリッド社会」では身分や年齢よりも、財・名声・才覚などによる力が重要になる。磯野さんの著書『社会が壊れるその前に メアリ・ダグラスの人類学』(新潮社)から編集部が作図

磯野

たとえば小グループでは、感情的なつながりができやすい一方で、嫉妬や恨みも渦巻きやすい。自分のいる社会の類型を知っていれば、他者とつながろうとするとき、その社会の形が極端になるとどんな問題が起こりやすいのか予想がつきます。多少なりとも対策を打てます。

そうやって他者とつながる共同体を作っていく必要があると思います。「面倒な人付き合いは全部排除していきましょう」とした先は、テクノロジーやビッグテックにコントロールされる未来かもしれない。

 

古い枠をなくした先に、別の枠がある。

磯野

壊した先に出てくる枠が、ビッグテックの作ったプラットフォーム。その中で輝くことが「自分らしさ」だとしたら、恐ろしいですよね。

 

自分が嫌っている側にも、必要なものがある

でも、昔の枠組みに戻りたいわけでもありません。どう考えればいいのでしょうか。

磯野

ダグラスの議論から読み解くと、生き生きした社会が続くためには、決まった秩序や枠組みを守る「形式」と、それを崩す「反形式」が一つの社会の中に共存していることが必要なんです。儀式やお祭りというのは得てして“日常と異なること”(=反形式)が敢えて行われる場です。これをダグラス流にいうと、反形式を形式(=日常)の中に取り込み、もう一度社会の土壌を耕し直すことで、社会は活性化していきます。

ところが今は、形式を守ろうとする保守的な要素と、枠を壊そうとするリベラル的な要素が互いにいがみ合い、戦っているように見えます。社会を持続させるためには両方が必要なのに、片方を排除しようとしている。その結果として、社会を良くしようとする試みが、社会を立ち上げるための土壌を破壊しているのです。

枠を壊しすぎても新しい社会がうまく立ち上がらず、内部で争いが起きる。一方で形式を守ることが強くなりすぎれば、「純粋な日本人だけの社会をつくろう」とか排除の思想が強まり、共同体の多様性が失われ、社会がやせ衰えてしまいます。

 

守ることと、変えることの両方が必要なんですね。

磯野

社会の分断が極端になってきたときには、自分が忌み嫌っている相手側にも必要なものがあるんじゃないかという視点が必要だと思うんです。

たとえば天皇制に反対する人なら、象徴が果たしてきた役割の良い面も捉えられているだろうか、と内省してみる。多様性が嫌だという人なら、それが社会をどう活性化させているのだろうか、と考えてみる。

自分は直感的に何を好み、何を嫌だと思い、何に喜び、何に怒りを覚えるのか。そのような形で自分を内製したり、分析をしたりするときに、ダグラスの視点は使えるんですよね。いま自分がいる社会の類型を理解し、より善い社会にしていくために、この本が使われたらいいなと思います。

 
磯野さんの著書『社会が壊れるその前に メアリ・ダグラスの人類学』(新潮社)。イギリスの人類学者メアリ・ダグラスの約半世紀前の著書『ナチュラル・シンボル(Natural Symbols)』を手がかりに、現代社会の問題を新たな視点から分析する

[取材・文]樋口 かおる [撮影]西田 香織