【後編】磯野 真穂
その「枠」、なくせば自由になれますか?
儀式、ルール、対話を人類学から考える
2026.10.15
町内会の当番や会社の行事。いつの間にか増えていくしがらみが、面倒だと感じたことはありませんか?
面倒な「枠」がなくなれば、もっと自由に、気楽に生きられる気がします。
人類学者の磯野真穂さんは、枠を取り払った先に別の枠が待っていることもあると指摘します。「境界をなくす」「対話で解決する」といった、よいことに思える言葉にも見落としがあるのかもしれません。
後編では、『社会が壊れるその前に メアリ・ダグラスの人類学』を刊行した磯野さんに、儀式やルールが持つ意味を伺います。窮屈さを感じる枠と、どう付き合えばよいのでしょうか。
( POINT! )
- 儀式は自分の能力を高める「ルーティン」として個人化
- 人間は言葉で境界を作り、世界を整理して暮らしている
- 「複雑性に耐えろ」は、やさしいようで厳しい指令
- 対話にも枠が必要。「話せば解決する」とは限らない
- 古い枠をなくした先で、ビッグテックの枠に取り込まれることも
- 社会には守る力と変える力が必要。嫌っている側にも大切なものがある

磯野 真穂
人類学者。東京科学大学リベラルアーツ研究教育院教授。長野県安曇野市出身。早稲田大学人間科学部スポーツ科学科を卒業後、オレゴン州立大学スポーツ科学部に学士編入。自然科学のアプローチに違和感を覚え、文化人類学に専攻変更。同大学大学院にて応用人類学修士号取得。IT企業にて2年間の派遣社員を経た後、早稲田大学大学院 文学研究科に入学し、博士(文学)取得。早稲田大学文化構想学部助教、国際医療福祉大学大学院准教授を経て、在野の研究者として活動。2024年より現職。専門は文化人類学、 医療人類学。 著書に『なぜふつうに食べられないのか:拒食と過食の文化人類学』(春秋社)、『医療者が語る答えなき世界:「いのちの守り人」の人類学』(ちくま新書)、『ダイエット幻想:やせること、愛されること』(ちくまプリマー新書)、『他者と生きる:リスク・病い・死をめぐる人類学』(集英社新書)、『コロナ禍と出会い直す:不要不急の人類学ノート』(柏書房、第33回山本七平賞受賞)、『社会が壊れるその前に メアリ・ダグラスの人類学』(新潮社)。宮野真生子との共著に『急に具合が悪くなる』(晶文社、濱口竜介監督により映画化。カンヌ国際映画祭最優秀女優賞受賞)がある
儀式やルール、やっぱり面倒じゃないですか?
町内会の運動会や社内の飲み会が減るなど、儀式は減っているのかなと思います。

磯野
たしかに共同体としての儀式は減ってきていますよね。でもルーティンはむしろ勢いを増しています。
ルーティン?

磯野
「イチローのルーティン」とか。あれは儀式です。儀式すら個人化されているんですよ。
「自分らしいモーニングルーティン」とかありますね。

磯野
自分だけの儀式なんですよね。自分の能力を伸ばすための儀式です。
成人式や入社式のように、儀式には立場の変化や節目を実感させる働きもありますよね。一方で、そうした区切りや枠をなくそうという考え方もあります。磯野さんは、「境界をなくす」という言葉が気になったそうですが。

磯野
『急に具合が悪くなる』と『他者と生きる』の刊行の後、「境界をなくす」「複雑性に耐える」といったことを語ってほしいという依頼とか、そういうことの大切さを語る献本などをいただいたりするようになりました。もちろんありがたいことなんですが、ちょっと違和感を抱くこともあります。
もちろん、境界があることによる弊害はあります。複雑性に耐えることができずに、わかりやすい答えに飛びついてしまうことの問題もあります。ただ、人間は言語を使う動物です。そして言語は、世界に境界を設けるための道具でもあります。
「境界をなくす」「複雑性に耐える」は、やさしい言葉?
言語が境界を作る…。

磯野
言語は分類をするツールです。黒と白は違う、黒と灰色は違うというように、人間は言語を使って分類して、境界を作ってるんですよ。そして人間は、際立って言語を発達させてきました。
前提として、人間は混沌とした世界の中で、言語を使って分類を施すことによって世界の秩序を作り、安定させて暮らしています。境界をなくすことが必要な場面もありますが、「境界をなくす」ことを手放しに称えるという姿勢は、人間が持つ特性を少し忘れすぎではないかと思います。
なるほど。「複雑性に耐える」はどうでしょうか。

磯野
「複雑性に耐える」「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉もとても流行っています。でも私は、人間というのはそもそも、複雑性に耐えられない動物だと思います。だからこそ分類を施す。分類せずぐちゃぐちゃにしているとわかりにくいから、整理整頓して、そこに名前を付けてるんです。複雑性を減らしているんですよね。
けれども当然、分類してもどこにも当てはまらないものって出てきます。人間が任意に境界線を引いてるのだから、絶対的なものはない。でも分類をすることで社会を作っているので、分類を否定的にみた上で、「複雑性に耐えろ」というのは、やさしいようで厳しい指令だと思います。
「わかりやすい答えに飛びつくな」といった本もありますが、私たちは答えを出しながら日々生活しています。複雑なままでは、何も進まない。だから、どんな答えに飛びつくかが問題だと思うんです。
飛びつく先が問題。

磯野
はい。飛びつくこと自体は、人間がそもそもやることなので。ただネガティブ・ケイパビリティという言葉がこれほどもてはやされること自体、現代社会の特徴的なあり方を反映していると私はとらえています。これも、『社会が壊れるその前に』の執筆のきっかけの1つです。
「飛びつくな」と言う人自身が正しいと感じる答えを相手が選ぶ分には、「飛びついた」とされないのではないかと思います。

磯野
おっしゃる通りですね。
対話で解決できるのか
意見が異なるときも、最後は「対話しましょう」という話になりがちです。でも、対話でうまくいくのでしょうか。

磯野
対話が大切なことは重々承知の上で言いますが、あまりにも対話が礼賛されているという認識の立ったうえで、対話礼賛の風潮の中には、メアリ・ダグラスが言う「ゼロの欲望」が潜んでいることを指摘したいと思います。つまり境界を取り払って、何も分類することなく、ありのままで全人的に向き合い、心の内から出てくる言葉を交換し合うと、何か素晴らしいものがあらわれて、問題が解決し、結果として美しい社会が立ち上がるという発想ですよね。
哲学者の永井玲衣さんが「哲学対話」をやっていますが、永井さんのやり方にも、時間を決める、対面で集まる、一人ずつ話すなど枠があります。完全な自由ではなく、枠はまずもって用意されていて、そこから言葉が立ち上がる。
また、対話で何かが解決することもあるし、それは素晴らしいことですが、対話が持つ可能性が常に企業の中で花開くわけではありません。永井さんの対話のように一度集まったら解散する「組織」ではなく、持続性のある組織の場合、必ず利害関係が生じます。そうすると対話とは名ばかりの空気の読み合いが発生することもあるでしょう。対話は大事でパワフルなツールですが、対話さえすれば解決すると考えるのは、現代社会の自己礼賛思想と同じです。
枠をなくした先に、別の枠がある
他者と関わりたくないという人が増えていると聞きますが、自己礼賛に偏らずにいるためには、他者の存在が必要ではないかと思いました。

磯野
ダグラスは、人間が制度やテクノロジーによって一方的に動かされている感覚を抱くとそれが疎外感となり、たとえば「権力を倒せばいい」というような極端な考えにつながりやすいと話しています。
ダグラスは、社会における人間のつながり方として、「高分類社会」「小グループ」「強グリッド社会」という3つの類型を示しています。それぞれに強みと弱みがあるんですよね。

磯野
たとえば小グループでは、感情的なつながりができやすい一方で、嫉妬や恨みも渦巻きやすい。自分のいる社会の類型を知っていれば、他者とつながろうとするとき、その社会の形が極端になるとどんな問題が起こりやすいのか予想がつきます。多少なりとも対策を打てます。
そうやって他者とつながる共同体を作っていく必要があると思います。「面倒な人付き合いは全部排除していきましょう」とした先は、テクノロジーやビッグテックにコントロールされる未来かもしれない。
古い枠をなくした先に、別の枠がある。

磯野
壊した先に出てくる枠が、ビッグテックの作ったプラットフォーム。その中で輝くことが「自分らしさ」だとしたら、恐ろしいですよね。
自分が嫌っている側にも、必要なものがある
でも、昔の枠組みに戻りたいわけでもありません。どう考えればいいのでしょうか。

磯野
ダグラスの議論から読み解くと、生き生きした社会が続くためには、決まった秩序や枠組みを守る「形式」と、それを崩す「反形式」が一つの社会の中に共存していることが必要なんです。儀式やお祭りというのは得てして“日常と異なること”(=反形式)が敢えて行われる場です。これをダグラス流にいうと、反形式を形式(=日常)の中に取り込み、もう一度社会の土壌を耕し直すことで、社会は活性化していきます。
ところが今は、形式を守ろうとする保守的な要素と、枠を壊そうとするリベラル的な要素が互いにいがみ合い、戦っているように見えます。社会を持続させるためには両方が必要なのに、片方を排除しようとしている。その結果として、社会を良くしようとする試みが、社会を立ち上げるための土壌を破壊しているのです。
枠を壊しすぎても新しい社会がうまく立ち上がらず、内部で争いが起きる。一方で形式を守ることが強くなりすぎれば、「純粋な日本人だけの社会をつくろう」とか排除の思想が強まり、共同体の多様性が失われ、社会がやせ衰えてしまいます。
守ることと、変えることの両方が必要なんですね。

磯野
社会の分断が極端になってきたときには、自分が忌み嫌っている相手側にも必要なものがあるんじゃないかという視点が必要だと思うんです。
たとえば天皇制に反対する人なら、象徴が果たしてきた役割の良い面も捉えられているだろうか、と内省してみる。多様性が嫌だという人なら、それが社会をどう活性化させているのだろうか、と考えてみる。
自分は直感的に何を好み、何を嫌だと思い、何に喜び、何に怒りを覚えるのか。そのような形で自分を内製したり、分析をしたりするときに、ダグラスの視点は使えるんですよね。いま自分がいる社会の類型を理解し、より善い社会にしていくために、この本が使われたらいいなと思います。
[取材・文]樋口 かおる [撮影]西田 香織

