小学生も語る「自分らしさ」。でも、「自分らしさ」って?

「自分らしく」「私らしく」は、とてもよく聞く言葉です。

磯野

『他者と生きる』という本で、読売新聞と朝日新聞に「自分らしさ」がどのくらい使われているのかを調べたんですよね。すると80年代には年間100回に満たなかった「自分らしさ」が、90年代から爆発的に増え始め、2000年代には7000回以上使われています。2003年には、オンリーワンの素晴らしさを歌うSMAPの『世界に一つだけの花』が大ヒットしました。

今ではそこらじゅうで使われています。数年前は脱毛の広告でも見ました。

 

脱毛?

磯野

脱毛の中吊り広告に、「この世界に自分らしく踏み出していこう」って、キャッチコピーがあったんですよ。 脱毛するとなぜ自分らしく世界に踏み出すことになるのか、意味不明ですよね。

 

脱毛しないほうが自分らしいような…。

磯野

他にも「スマートドリンク(*1)の自分らしい飲み方」とか「自分らしい就活」「自分らしい死に方」、たくさんあります。最近見たのは「自分らしいオーラルケア」「自分らしい水分補給です」。

 

小学生によく会うんですが、子どもたちもよく言いますね。「ダメなところもあるけどそれも私らしさ」とか。

磯野

小学生も?

 

そうです。磯野さんはなぜ「自分らしさ」に興味を持ったんですか?

磯野

摂食障害の調査をしているとき、専門家が当事者の方たちに「自分らしくあれ」という言葉を使っているのを聞きました。「体重なんてどうでもいい」「周りのことなんて気にしなくていい」「あなたらしくあればいい」という、はげましの言葉ですね。治療者の皆さんが応援の意味を込めていること、あなたはあなたで素晴らしいというエールを送っているのはよくわかります。でも、そこで何が起こるかというと、その言葉に困っちゃうんですよ。「自分らしいってなんだろう」って。

「あなたのやりたいことをやりなさい」と言われたときに、「私は何をしたいんだろう」「私らしいってどういうこと?」という悩みが発生する。それはどんな言葉と一緒に検索されているかにもあらわれていて、2021年に調べた際は、ベスト3が「わからない」「診断」「例」だったんです。

 

枠をなくした自由。でも、自分を説明する手がかりがない

「自分らしさ わからない」で調べる人が多い。

磯野

その「自分らしさ」が急増したのが、90年代です。年功序列や終身雇用といった日本の社会の枠組みが揺らぐ中で、広まっていくんですよね。つまり、日本社会の型が壊れていった時期。

それにはいい部分もありました。非常に抑圧的で、壊されてよかったという部分もあったし。「自分らしさ」というのは、そういうものに対する抵抗の言葉として出てきたんですよね。社会の制度や枠組みがマイノリティの人を押さえつけてきたことへ、「私らしく生きる」はアンチテーゼになります。

けれども、否定した先に何が生まれたのかが問題になります。終身雇用がよくないと枠を壊したけれど、その先に新しい枠は生まれたのでしょうか? 新しい枠ができたというより、枠がなくなってしまったという方が適切だと思います。非正規が増え、安心した未来を見通せる形のある社会は見出しづらくなりました。自分の外側に自分を見出し、位置付ける枠がなくなった結果、自分の内面に降りていって、自分を見出すほかなくなってしまったのです。

 

枠みたいなものは、手がかりにもなりますよね。たとえばフリーランスで働こうとするとなんでも自分で選ぶことになるけど、自由な分むずかしい。

磯野

そうですよね。私もフリーランスを4年間やりました。所属が完全になくなったことで、自己紹介がすごく難しくなりました。

 

自己紹介が?

磯野

フィールドワークに行って「何々です」と名乗るときがありますよね。それまでは「◯◯大学の磯野です」と言えばよかったところを、「なんて言おう?」みたいな。「人類学者です」と言うこともできるけど、「人類学者って何ですか?」と返ってきたり。

フリーランスは、縛られるものがないという点で気楽です。でも自分の評価を作りながら自らネットワークも作って売上も上げるというのは、なかなか大変なことです。SNSやブログでは「あなたのやりたいことをやればいい」「会社なんてやめていい」というような言葉をよく見かけます。それができる人たちは、自由にやりたいことをすることに価値があるという世界観で生きていけばいいと思いますし、そういう能力があるのだと思いますが、これが社会全体の価値観となってしまうと、少数の勝ち組と多数の負け組を作り出すことになりかねません。

 

「あなたの中にも輝ける何かがあるはずだ」というメッセージも、よく見かけます。

磯野

少なくともさまざまな民族の暮らしを描いたエスノグラフィの中で、「あなたの中に輝ける何かがある」と言っている民族を、私は見たことがないです。この現代社会以外に。

自分の中に、宝石みたいなものが埋まっていて、抑圧から解放されるとそれが自動的に光り輝く。そして、みんなが光り輝けば素晴らしい世界ができる。この考えが、私が本の中でいう過剰な自己礼賛です。なぜここまでの自己礼賛が前提となる社会なのか。まず、私たちがいかに変わった“民族”なのかを、自覚したほうがいいと思います。

 

「ありのまま」のはずが、キラキラすることを求められる

「自分らしく」と言いながら、脱毛したり自分を変えたりする。「ありのまま」ではなく「理想の自分」を目指す話になっていませんか?

磯野

『社会が壊れるその前に』では、競争が苛烈になる現代社会に特徴的な身体の1つのタイプとして「自己研鑽型の身体」について書きました。「自分らしさ」は、今の自分というよりは、自分が理想とする自分であることが多い。テクノロジーや最新のエビデンスやら、そういうものをとにかく使って理想の身体を目指します。

でも、その「自分」を喚起しているのは、本当に自分の内側から湧き出してきた願望なのでしょうか? 美容整形の技術や広告など、他者に喚起されたものの内面化かもしれないわけです。私たちの身体はすでに大きな「市場」です。脱毛やオーラルケア、鼻の形を整えるなど、新しい身体の市場は次々と開拓され、そうやって身体を変えた先に、より良い未来が待っている、より幸せな自分が現れるような気がしてしまう。でもモノを売りたいという売り手の野心は「あなたらしさを応援する」という形で見事に隠されます。

 

ルッキズムやボディポジティブなど、そのようなトレンドを批判する側はどうなのでしょう?

磯野

実は私の本では、このような批判のトレンドも自己研鑽型の兄弟であると書いています。私はこれを「社会変革型の身体」と名づけました。「ルッキズムがよくない」「痩せてるだけが美しさじゃない」という形の批判は大切なことです。私も摂食障害の調査を通じ、ルッキズムや痩せ礼賛がいかに人の心をボロボロにするかを見てきたので、その批判には当然同意します。

でも私が問いたいのは「否定した先でどうするんですか?」ということです。先日大学生からインタビューを受けたのですが、ボディポジティブに賛成し、ルッキズムに反対する自分が、おしゃれをしたいと思ったり、脱毛をしたいと思ったりするのはいけないのではないか、という質問でした。人間は身体を持っていますし、社会があれば、そこには当然ある形の「美しい身体」が立ち上がります。したがって、あれもダメ、これもダメ、と言い出してしまうと、身体そのものを捨てるしかなくなってしまう。これは明らかに行き過ぎでしょう。

 

「痩せているだけが美しさじゃない」と発信する人も、結局キラキラしているように見えます。

磯野

私はずっと、「からだのシューレ」という、身体と食べ物について社会と自分のつながりを考えたい方のためのワークショップを開催してきました。そこでルッキズムや痩せていることが美しいという社会規範に反対するメッセージを出してきて、ボディポジティブ(*2)という運動も、様々な体型の方がおしゃれを楽しめるようになってよかったと思ったんです。でも、その先に起こったのは、身体そのものを否定するしかないような「社会変革型の身体」です。

さらに一部のぽっちゃりした人たちが、体型に関係なく人生は楽しめると言って、美味しいものを食べて、キラキラした幸せな生活をinstagramなどで公開するようになりました。痩せた身体を見せるインフルエンサーと身体は違っても、鏡合わせの関係になっています。

 

役割やルール、全部なくせばいいの?

「痩せている人だけが美しい」といった枠を壊すことで、楽になる人はたくさんいますよね。でもなぜ同じような問題が起きてしまうのでしょう。注目されることで経済的な効果も出てくるからでしょうか。

磯野

理由はいくつかありますが、競争が苛烈になり、社会の枠があやふやになり、未来の見通しがつけづらくなる社会では、自分を輝かせる以外にありません。言い方を変えると、社会を批判する言葉を「売れる」ための手段、人格表明の手段に使う人たちが増えてきます。そうなった瞬間に、「体型で人間の価値は決まらない」「痩せているだけが全てではない」という言葉に本来内在していた社会批判の力は失われてしまいます。

 

SNSでよく見かける光景ですが、もっと以前から指摘されていた問題なのでしょうか。

磯野

人類学者メアリ・ダグラスは約半世紀前に「自分らしさ」が礼賛される社会の問題を警告しています。『社会が壊れるその前に』ではメアリ・ダグラスの著作を紐解いたうえ、「自分らしさ」が礼賛される土壌をもつ社会を「能力資本主義」と名付けて考察しています。自分を輝かせることは、誰もができることではありません。「自分らしさ」が大事だと訴えるほどむしろ競争が進み、そこから取り残された人は、自分に価値がないように感じ、どんどん寂しくなってしまう可能性が高くなります。

 

とはいえ古い枠組みに不満があって、なくしたいと思う人は多いですよね。

磯野

そのこと自体は良いと思うのですが、「枠をなくせば、その先に自然と良い社会が生まれる」と考えてしまうと、ダグラスが警告する「ゼロの欲望」に陥ってしまいます。制度や社会的な役割は、たしかに個人を抑圧する側面があります。けれどもそれを撤廃してしまったら、社会の根底を支えている道具立てを全て失ってしまう。何もかもなくした後に、強い者が勝つ社会がやってくることを警戒しているんです。

そして実際、ダグラスがいた時代よりも社会は衰弱し、人はさらに疎外され、さびしくなり、貧富の差は増えていると感じています。だからこそ、本のタイトルを『社会が壊れるその前に』にしました。

 
磯野さんの著書『社会が壊れるその前に メアリ・ダグラスの人類学』(新潮社)。イギリスの人類学者メアリ・ダグラスの約半世紀前の著書『ナチュラル・シンボル(Natural Symbols)』を手がかりに、現代社会の問題を新たな視点から分析する

「自分らしさ」を追い求める社会について伺った前編はここまで。後編では、面倒に感じる儀式やルールが、私たちの暮らしでどんな役割を果たしているのかを伺います。

※1:
アサヒビール(スマドリ株式会社)が提唱するアルコールの有無を自由に選べる飲み方の多様性
※2:
どんな体型でもあなたのままで素晴らしいとする考え方、運動

[取材・文]樋口 かおる [撮影]西田 香織