現実と非現実の境界がどんどん溶けていく

前編では、現実科学の視点から現実とは何か?をうかがいました。後編では、現実科学によって現実がどうゆたかになるか教えていただければと。

藤井

私たちが、この先ゆたかに生きるにあたっては「二つの希望」があります。

 

その二つとは?

藤井

一つは、現実の外側にある人工的な現実です。前編でもお話ししたとおり、これはデジタルコンテンツによってもたらされる現実なので、あまねく人たちに安価で届けられます。電気があれば生み出せるので、太陽さえあれば絶えません。

そして、今後は現実と区別がつかないハイクオリティな人工現実が、どんどん領域を拡大していくでしょう。人びとは、人工現実の世界を、本当の現実と同じ感覚で生きられるようになる。いうなれば、現実と人工現実の境界が、溶けてわからなくなってくる。これが、ゆたかさのよりどころの一つになるでしょう。

 

SF的な世界観もありますね。では、もう一つの希望とは?

藤井

実はもう一つの希望は、昔から存在しながら、現代の人びとがあまり目を向けない「無意識の現実」です。空想や妄想、バイアスなどによって、自分の脳がつくり出す現実ですね。意識的な現実と、こうした無意識の現実の境界も、ゆたかさの大きな源泉となります。

 

どういうことでしょう?

藤井

無意識の領域から生まれたクリエイティビティが現実世界に溶け込む、みたいなことです。

たとえばAさんは、毎日仕事に追われ、退屈な日常を過ごしている。そんな中、だいぶ前に小説で読んだ、売れっ子デザイナーの姿を思い出す。そのデザイナーは、超多忙ながらも社会に確かな価値を提供し、とてもスタイリッシュに暮らしていているように見えた。そしてAさんは、ふとひらめく。自分も、あれと同じなのではと。以降Aさんは、人に求められて忙しく過ごすこと自体に価値を感じるようになる。そして仕事にやりがいをもって臨めるようにもなり、その結果よりよい成果を出せるようになる。

現実はここまで単純ではないかもしれませんが、物語に入り込むことで現実がゆたかになることは、往々にしてあると思います。

 

無意識を抑えると、出てこなくなる

子どもが大好きな“ごっこ遊び”にも通じそうです。

藤井

子どものごっこ遊びも、まさに物語へどっぷりつかっている状態ですよね。子どもと同じように、大人も無意識を解放できたら現実は非常にゆたかになるのかなと。やっぱり空想みたいなものにずっとひたりながら、延々と話したり何かをつくったりできたら、人間は幸せだと思うんですよね、しかも、そうしたクリエイティビティは基本的にコストがかからないので、無尽蔵に出せ、エンドレスに続けられる。

 

とはいえ、大人が子どもと同じようにごっこ遊びばかりしていたら、生活が成り立たなそう……。

藤井

たしかに、空想みたいなことばかり言っていては、仕事や人づき合いに支障をきたしてくるでしょう。実際、多くの人はそれが不安で「バカなことばかり言ってられない」と自分の意識を抑えるようになる。でも、抑えはじめると今度は出てこなくなる。

 

どうすればいいのでしょう……。

藤井

理性的・社会的な自分と無意識に身を任せる自分を、行ったり来たりすればいいのではないでしょうか。実際に私も、それに近いことをやっているつもりです。だから、理性や社会性が必要な場面では、そちらの自分にシフトする。一方でそれが必要ない場面では頭のネジをゆるめ、無意識を解放してやる。そうすることで、日常が楽しくゆたかなものになると思います。

 

ちなみに、そもそもの質問ですが、ゆたかさは「幸せ」に直結しますか?

藤井

少なくとも、「ゆたかでないことによる不幸せ」はたくさんあります。たとえばこれができないとかあれができないといったことにより、自身の可能性がせばまる「不幸せ」です。その点、今後はデジタルやテクノロジーによって、そうした「不幸せ」を解消するリソースが十分に満たされるでしょう。チャットGPTなどの生成AIは、まさにその端緒だと思います。

一方で、何に幸せを感じるかは人それぞれです。

 

人によってだいぶ形がちがうかもしれませんね。

藤井

だからこそ、幸せの形を自分で選ぶことが大切になります。今までは、それができるのは、一部のお金持ちでした。でも、今後は多くの人が、それをできるようになる。それは、自分次第で自分ならではの幸せを得られる世界ともいえます。

 

本当の幸せは、競争とは離れたところに

そう考えると、希望がわいてきます。

藤井

はい、その点では希望しかありません。ただ、やっぱり努力は必要になります。もしくは、センスですかね。

私は以前から、趣味でランニングをしています。ただ東京にいたころは、あの人を追い越そうとかこの人についていこうと思ったりして、あまり楽しくありませんでした。ところが今いる熱海でランニングをしてみると、走っている人がほぼいないため、好きなスピードで走れる。結果、自分のペースで自由に走れることに気づいてものすごく驚いたんです。あ、こういう楽しさがあったのかと。競争とはまったく別のところにある楽しさ、みたいな。

 

競争とは、まったく別の楽しさ。

藤井

やっぱり、人と比べたりしないで純粋に自分の楽しみだけのためにやることが大切なんだなと。別に、ゆっくりやっても誰にも怒られない。だから、自分の楽しさをただつきつめればいい。そこに最近きづいて、びっくりしたんですよね。

 

周りと比べて相対的にどうこうではなく、自分の中での絶対的な好きや楽しさを追求すると。

藤井

それには、自分を客観的に見つめる必要があります。私もそのプロセスをずっと続けたからこそ、自分は今これを楽しいと思ってやっているんだなとか、これは嫌だと思っているからやらないんだなといった理解が、最近できるようになってきました。結局は、そうやって意識的に自分と向き合って、人とはちがう「自分の幸せ」を見出すことが重要だなと。

もし30歳くらいでそれができるようになれば最高だったけど、しょうがないですよね、そんなこと誰も教えてくれないから。

 

たしかに、教わらなかった気がします。

藤井

そして、自分がいいと思う形を、更新し続ける。面白いのは、私たちの生活が今、テクノロジーによって物理的な制限から解放されつつあることです。空間や時間の限界がどんどん取り払われ、今までならできなかったことが、簡単にできるようになってきている。

だから自身の幸せの哲学をベースに、今だったらこれができるなとか、逆にこれをやる必要がなくなったといったこともアップデートしていく。それをやり続けてこそ、「現実」はよりよいものになると思います。

 

[取材・文]田嶋 章博 [編集]樋口 かおる [撮影]工藤 真衣子