忙しい現代人に響くニーチェの言葉

『スマホ時代の哲学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)から編集部が作図

『スマホ時代の哲学』で紹介されていた哲学者ニーチェの言葉は、現代人にも通じるものだと思います。

谷川

忙しくすることで生活を「激務」で埋め、自分自身や生きる不安から逃れようとしているという言葉ですね。

 

スマホ片手にタイパに追われる私たちにぴったりの言葉を、ニーチェが100年以上も前に残してくれていることが不思議です。

谷川

彼は19世紀後半に生きた、近代の思想家なんです。多くの人が集まって住む「都市」が生まれた時代です。この言葉には、都市化という社会背景を読み込むことができるわけですね。人がギュッと集まって住むと、それまではなかった不安を感じることがありますよね。現代でたとえると、共通の友人が自分抜きで遊んでることが見えてしまうような。

ニーチェが生きたのも、人が集まって都市部が形成されたことで、人が何に関心を持ってるのかがわかってくる時代です。大衆が共有する「流行」が生じた時代だといってもいい。人が集まることで、いろんな不安が生まれるけど、不安に直面したくなくて流行を必死に追いかけたり、逆に「流行を追いかけるなんて」とはすに構えてみたり。たとえば、そういう内容をニーチェの言葉(※1)に読み込むといいと思います。つまり、こういう社会的条件が今も昔も変わらないから、時代を越えて共鳴できるということなんだと思います。

 

産業によって仕事が増えただけでなく、人がたくさんいることで他人が気になり、気持ち的にも忙しくなって。

谷川

そうですね。彼はとても繊細な人だったという記録が残っています。そういった敏感すぎる人は、変革の時期に変化や不安定さを一身に受けて傷ついてしまうけれど、同時に重要な言葉を発することがある。炭鉱のカナリアみたいな役割を果たしてしまうわけですね。ある意味、彼の言葉が今の私たちに届いたのは、彼が繊細だったおかげだといえるかもしれません。

 

孤独は思考を生む。孤独な時間のためには孤立が必要

ニーチェの時代も現代も、私たちは予定を詰め込むことで孤独と向き合わないようにしています。そもそも「孤独」とは、どういう状態を指すのでしょうか。

谷川

『スマホ時代の哲学』で、ハンナ・アーレント(以下アーレント)という哲学者の「孤独」の話を扱っています。彼女は、「一人であること」を孤独・孤立・寂しさの三つの様式に分けているのですが、彼女の言葉づかいでは、「孤独」は「自分自身と過ごしている状態」という意味で、悪いニュアンスはありません。

 

孤独という言葉に、ネガティブな意味はないということですか?

谷川

はい。自分自身と過ごしている状態をフラットに意味していて、「苦しい」「排除されている」といったニュアンスはありません。

ちなみに、自分自身と話す自己対話は、「two in one」と表現されることがあります。つまり、一人のなかに二人の自分がいる状態ですね。「ちがうかも」「こうも考えられるんじゃないか」と、否定や批判も含めながら、自分自身のなかで物事を吟味していくことが、「孤独」だと考えるといいと思います。

面白いのは、アーレントがそれを「thinking(思考)」とも呼んでいることです。

 

孤独に対して抱いていたイメージが変わりました。もしかして、孤独がないと人は思考を持てない?

谷川

本当に何も考えていないわけではなくても、物事を慎重に吟味するという意味での「思考」はないでしょうね。たとえば、カラオケでみんなとワーッってやってるときに、落ち着いて何かについて考えるのはむずかしそうですよね。何かを順を追って考え、批判的に噛みしめていくには、一人になって自分自身の中で議論を深めるしかありません。

 

そうですね。「孤立」はどうですか?

谷川

アーレントは「孤立」について、精神的にも物理的にも他人からの干渉がない状態のことだと言っています。自室とか、トイレの中とかが孤立の典型例かもしれません。トイレの中にいると、さしあたって誰かに「谷川!」って呼ばれることはなくなりますよね。アーレントは、孤立という言葉を、他人に邪魔されない状態という意味で中立的に使っています。

他人がいない状態でしかできない活動というのがあって、思考はその一つです。要するに、孤独を持つために、孤立が必要だという関係なんです。

 

常時接続や「寝落ち通話」で寂しさを埋められる?

孤独と孤立は、ネガティブな意味で使われることが多いですよね。

谷川

悪い意味での一人ぼっちのことを、アーレントなら「寂しさ」と呼ぶと思います。寂しさは、一人なのに一人でいることに堪えられず、依存できる他者を求めている状態のことです。

アーレントは、「寂しさは他の人々といるときに最もはっきりとあらわれる」とも言っています。人と一緒にいて、周りは楽しんでいるのに自分はそれに乗っかれていないと感じるとき、寂しいですよね。

 

他人がいることで寂しさを感じるのであれば、スマホで常に人とつながっていると、より寂しくなってしまいそうです。私たちは寂しさを埋めるために、孤独と孤立をなくそうとしてしまう?

谷川

現代人はスマホやSNSを通じて、いつも誰かを求めているところがあります。しかし骨を折ってまで他者のことをケアする人は多くない。みんな自分の寂しさでいっぱいいっぱいになっていて、見かけ上は誰かを求めているのだけれども、実際には自分自身のことばかり考えているところがあります。

 

少しでも一人の時間があると、SNSで不特定な「雑談チャット」「寝落ち通話」相手を募集する人も多いですよね。

谷川

いますよね。寂しさを埋めるために誰かと過ごしたいのでしょうが、その相手が「誰でもよくなる」のが寂しさの厄介なところだと思います。そして、スマホやSNSはそういう寂しさを加速するんですよね。

会話やコミュニケーションの解像度がちゃんと上がると、この人とだからする話題があるということに、おそらく気づけるはずなんです。この人にはこういう言葉づかいで話すけど、別の人にはちがう言葉づかいで話しているんだなって気づけるはず。

だから、誰でもいいからできる会話って、会話する相手にとってはすごく乱暴な話なんですよ。そういう乱暴さを避けるためにも、「孤立」や「孤独」を大事にする必要がある。

 
谷川 嘉浩さんの著書『スマホ時代の哲学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)

退避して、孤独な時間を持つには

誰でもいい相手に話すなら、独り言と変わらないかもしれません。それでも、「ぼっち」よりマシと考える人も多いです。一人でいることが自虐や悪口に使われる前提があるからこそ、『ぼっち・ざ・ろっく!』が人気コンテンツになるわけで。

谷川

でも、他人から切り離された状態、つまり「孤立」を再評価する動きは、最近ちょいちょいあるなと思っています。

 

どんなことですか?

谷川

少し前に雑誌『WIRED』が「未来への退却(リトリート)」という特集をやっていました。リトリートとはそもそも「退却」や「退去」「避難する」といった意味の言葉ですが、「喧噪から逃れる」という意味で使う人が増えてきていますね。ライターの塩谷 舞さんの本にも「リトリート」という言葉が登場しています。

リトリートは、「孤立」を尊重する旗印になっています。現代人は早すぎる情報に振り回されているので、そうやってスローガンをわざわざ共有しなければ、孤立は持ちづらいものなんだと思います。たとえば、今出た『ぼっち・ざ・ろっく!』について1ミリも知らなかったとしたら、「私は全然情報に追いつけてないな」と感じて、しんどくなってしまうかもしれない。そういう状況を引いて見るために、短期的な隠居状態(リトリート)を持つのはいいことだと思います。

 

意識して逃れないと、孤立することができないんですね。でも、スマホの誘惑は強力だし、自分と向き合うってハードルが高いと感じます。

谷川

ちゃんと孤独を持つことって難しいんですよね。『スマホ時代の哲学』でも強調したことなんですが、「孤独が大事だ」「自己対話をしよう」という結論だけを素朴に受け止めるうちに、「孤独を持っている私って豊かだ」「自分と向き合っている俺は深い」という考えに落ちてしまうことは簡単です。孤独は、自己陶酔に引っ張られやすいから、そんな簡単な話にはならないんです。

「孤独」という言葉が「選ばれた少数者のもの」という雰囲気を持った、深刻なものだから、自己陶酔に引っ張られるのだと考えています。私としては、自分と向き合うことをもっと軽くしたい。だから、『スマホ時代の哲学』では途中から孤独という言葉を強調するのをやめて、「趣味」を楽しむことを推奨する流れに転換しているんです。

趣味って、 夢中になれるものですよね。 なにかに夢中になっている人は、それに取り組んでる瞬間、ぶっちゃけ他の人なんてどうでもいいんです。ここには結果的に、孤立も孤独もあります。かしこまって眉にしわを寄せながら「孤独だ」「思考だ」と低い声で深刻そうに語らなくてもいい。

 

つい、ネガティブに捉えてしまいがちな「孤独」と「孤立」の持つ意味と、付き合い方を伺いました。でも、没頭できる趣味が見つからない人もいるだろうし、楽しいはずの趣味で周りと比べて落ち込んでしまうことも……。そもそも、趣味に夢中になるってどんな状態でしょうか。後編では、より深掘りしていきましょう。お楽しみに。

[取材・文]樋口 かおる [撮影]工藤 真衣子