かつては、“観なきゃならない”コンテンツなんてなかった?

前編で、SNSやLINEの普及によって映画やドラマを「観なければならない」というプレッシャーが生じたのではないか、というお話がありました。みなさんは、何かしらのコンテンツを「観なければならない」と思うことはあるでしょうか?

吉川

流行りの映画やドラマについては、ニュースと同じ感覚になっているかもしれませんね。社会人として「チェックしなければならない」と思って観ていることが多いかも。

そう思って観るコンテンツは、早送りすることがほとんどですね。新しいコンテンツはどんどん出てきますし、流行りの移り変わりもとても早いので、そうでもしなければ追いつかない。仕事に子育てにと、やることがとても多いので、夜の2〜3時間の間に一気に観たいんですよね。

稲田

流行りのコンテンツを観ることが、社会人としてのマナーのようになっている気がしますよね。いまも昔も「社会人なら目を通しておくべき」と言われるようなベストセラー本ってあるじゃないですか。それが書籍だけではなくて、映画やドラマといったエンターテインメント作品にも及んでいる気がします。

 

吉川

僕は不動産の仕事をしていて、業種業界を問わず個人のお客さんを相手にしていることが多いので、コミュニケーションのためにも流行りものは観ておく必要があると感じています。

稲田

僕は映画配給会社や出版社で働いていたので、当然「観ておくべき」作品には目を通していました。でも、それはあくまでもエンターテインメントに関わる仕事をしていたから。これはあくまでも僕の感覚なのですが、15年ほど前までは映画や映像制作、あるいは出版などの業界以外の方が「あの映画も観ておかなきゃ」なんて言っていなかったと思うんです。

 

流行りの映画やドラマは“一般教養”

高橋

Netflixを開くのが億劫に感じるときすらありますね。「ああ、こんなに観なきゃいけないものがたまっている……」って。

稲田

僕もマイリストに入っている作品の数がすごいことになっていますよ(笑)。僕の場合は職業柄、半ば仕事として観ているわけですが、こういった仕事をしていない人が流行りを追いかけるのはとても大変だと思いますね。

 

吉川

あとはみんなが観ているという理由に加えて、「簡単に観られる」ことも「観なければならない」につながっているような気がするんですよね。

稲田

おっしゃる通りだと思います。前編でもお話しましたが、サブスクリプションサービスが一般化するまでは、過去の映画やドラマを観るためには、基本的にはレンタルビデオショップに行くか、DVDを購入するしかなかった。足を運ぶ労力も時間も、お金もかかる行為だったわけです。

でも、いまでは数クリックすれば数万本もの作品にアクセスできる。流行りのコンテンツをチェックすることが大人の教養だとしたときに、視聴するハードルが高いならば対外的にも自分に対しても言い訳ができるでしょうが、そうではない。

「簡単に観られるのに、なんで観ていないの?」となるわけです。言い方を変えれば、流行りのコンテンツを観ていないことは「大人としてのマナーを簡単に身に着けられるのに、それを放棄している」とみなされる……あるいは、みなされると「思い込んでいる」のではないかと感じています。

 

簡単に得られるはずの“一般教養”を習得していないことに対する、負い目を感じてしまうと。だから、「観なければいけない」というプレッシャーを感じ、それが早送りやスキップ視聴という行為につながっているのかもしれませんね。

ゆとり教育が「個性のジレンマ」を生み出した?

前編では「個性的であること」を求められる風潮も「観なければいけない」というプレッシャーを生み出しているのではないかというお話がありましたね。SNSなどを通じて、小さなころから自分が好きだと思うジャンルや作品も含め、すべてにおいて「上には上がある」と実感してしまう。それが、「『自分だけ』の特徴だと言えるものってなんだろう」という悩みにつながるのではないかと。

そして「情報」としてのコンテンツを消化し、「誰よりも詳しいジャンル」を獲得するために、早送り・スキップ視聴をしているのではないか、というのが稲田さんの仮説でした。だとすると、SNSなどに慣れ親しんでいる若い世代の方が早送り・スキップ視聴をする傾向が強いのでしょうか?

稲田

前提として言っておきたいのは、早送りやスキップ視聴をする人は世代を問わず存在しており、決して「Z世代だけの特徴」ではないということです。とはいえ、民間調査や僕が実施したアンケートにもとづけば、他の世代に比べて早送りやスキップ視聴の経験者が多いのは事実。SNSの影響もあると思いますが、それに加えて取材を通して感じたのは、Z世代が受けてきた教育の影響です。

 

偏差値重視の詰め込み教育への反省から、それぞれの生徒の学ぶペースや自主性を重視する「ゆとり教育」が始まったのが、2002年。その後、指導内容を削りすぎて学力低下を招いたとして学習指導要領が見直され、2011年にはいわゆる「脱ゆとり」へと方針が転換されました。

稲田

はい。Z世代の定義はさまざまですが、おおむね「1995年から2010年前後の間に生まれた世代」とされます。つまり、個性や自分らしさを重視する「ゆとり教育」と「脱ゆとり」の転換点に義務教育を受けていた人が多い世代なんですよね。Z世代後半に生まれた人は「脱ゆとり」しか経験していないことになりますが、「ゆとり時代」の影響は色濃く残っていたのではないかと、多くのZ世代の方々にインタビューをして感じましたね。

 

田中

私は2000年生まれなので、まさに「ゆとり」と「脱ゆとり」両方の教育を受けてきたのですが、稲田さんがおっしゃる通り、脱ゆとりに移行してからも個性や多様性を重視する点は変わっていないと思います。

もちろん、それ自体は大事なことですよね。でも、そう教えられてきたからこその葛藤や苦しさがあると感じていて。「個性」の重要性を強調されればされるほど、それを見出だせないときは強い自己嫌悪に陥ってしまうというか。

誰しもが唯一無二の個性を持っているはずだし、それを大事にと言われている。にもかかわらず、その大事にすべきものが見つからないと、「誰にでもあるはずのものが、自分だけにはないのではないか」と感じざるを得ないのではないでしょうか。

稲田

重視されるのが「偏差値」であれば、努力の方向性に迷うことはないですよね。ただただ各教科を勉強すればいい。でも、「偏差値よりも個性だ」と言われるようになり、際立つためには何をすればいいのかがわかりにくくなってしまったようにも感じます。「『個性が大事』って言われるけど、個性って何で、それはどう獲得すればいいの?」と悩んでいる若い世代は多いと感じました。

 

「あのアイドルが好き」と軽々しく言えない

田中

前編で稲田さんがおっしゃっていたように、あるジャンルやコンテンツに対する知識量もまた、本来は個性の一つになりうると思うんです。「とにかくこれが好きで、すごく調べている」って立派な個性じゃないですか。でも、ただ「好き」なだけでは、社会の中では個性にならないのではないかと思っていて。

たとえば、私はさまざまな女性アイドルグループを応援しているのですが、「あのアイドルが好きなんだよね」と言うだけでは個性として認められないように感じるんです。そのアイドルのライブにどれだけ行っていて、動画をどれくらい観ていて、曲をどれだけ知っているかといったことが問われているような気がしてしまって。

「他の人よりも詳しい」あるいは「時間やお金を投資している」と言えて初めて、ある対象が「好き」なことを周囲に認めてもらえ、それが個性になるような気がするんです。それってなんでなのかなって。

稲田

そういった状況が生み出したのが、「推し」という言葉だと思うんです。これもヒアリングした方が言っていたのですが、「簡単に『好き』とは言えない」と。なぜなら、自分が好きだと思う対象のことについて自分よりも詳しい人は確実にいて、そういう人には“好き”の度合いでは勝てないからだと。

あまり知識がないのに「あのアイドルが好き」と言うと、「あなたの“好き”ってその程度なんだ」とSNSなどでマウントを取られかねない。だから、「推し」という言葉を使っていると。

「推す」という言葉自体は以前から使われていますが、現在で言うところの「推し」は、そういった“自己防衛”のために用いられている側面もあると感じました。「好きと言えるほど詳しくないけど、あのアイドルを応援していますよ」といった意味が込められているのではないかと。

 

誰かの承認なしには、「個性」とは言えない?

稲田

田中さんがおっしゃったように、個性や多様性を重視する教育は素晴らしいとは思うんです。「みんなが生まれながらにしてオンリーワンの存在であり、絶対的な個性を持っている」と。その通りだと思います。

でも、多くの若い世代にとって「それぞれがオンリーワン」という考えは“綺麗事”でしかない。というのも、「周囲からの合意」を得ないと「個性」にならないと感じている人が多いのではないかと思っていて。

 

というと?

稲田

ある大学生からこんなことを聞きました。その方は小さいころからバレエに取り組んでいたそうです。バレエはたくさんの人が習っているものではありませんし、とても個性的じゃないですか。でも「私には個性がないんです」と言っていました。

「バレエが得意なんて、十分個性的だと思いますよ」と伝えたら、「友達にそのことを話しても、リアクションがないんです。みんなバレエのことは詳しくないから『へー』で終わってしまって、共通の話題にならない」と。他人から認められなければ、「個性」としてカウントされないわけです。

それに、就職活動も「自分には絶対的な個性がある」と信じられなくなってしまう要因なのではないかと感じます。というのも、「みんなには絶対的な個性があって、それぞれの価値がある」と教えられてきた人たちが、次々と企業から「お祈りメール(不採用通知)」を送りつけられるわけですよね。

もちろん、採用されなかったからといって、その企業がその人の個性の存在を否定したことにはなりません。単にその企業とマッチしなかっただけです。

 

そうですよね。企業に勤めてみると、「不採用」は決してその人の人格や価値を否定しているわけではないことがわかると思いますが……。

稲田

でも、「すべての人には絶対的な個性と、それぞれの価値がある」と小さいころから言われて育ってきた人たちからすると、「あなたの強みはなんですか?」と聞かれ、一生懸命答えたにもかかわらず、繰り返し「不採用です」と言われるような経験をすると、「絶対的な個性があるなんて、綺麗事じゃないか」という気分になっても仕方がないでしょう。

僕も、年を取ったいまなら、すべての人に個性があり、それぞれがその価値を発揮する方法があることを信じられる。でも、たくさんの人にインタビューをする中で、特に若い世代にはそのことを信じられない人が多いように感じました。

それは若い方々のせいではないでしょう。自分に絶対的な個性があることを信じられない、そんな社会をつくってしまった僕たち大人に責任があると、いまは思っていますね。

 

求められているのは「個性」? それとも「数字」?

周囲の人、あるいは“社会”から認められなければ、自分の「個性」を信じられない人が多くなっている?

稲田

これはあくまで僕の仮説ですが、「個性が大事だよ」と言いはじめたのが、社会だからじゃないでしょうか。多くの人が内発的に「個性は大事だ」と思うようになったのではなく、ゆとり教育などによって“外側”からその重要性を教えられたから、「個性」を認識するために外部からの承認を求めてしまうのではないかと思うんです。

 

なるほど。そして、多くの学生たちは、就職活動を社会、あるいは企業という“外部”から個性を承認されるための場のように認識してしまっていて、「不採用」が繰り返されると、自らの個性の存在を疑うようになってしまう。

田中

私はまさに就職活動中なのですが、現状のシステムには少し違和感を持っていて。「人柄を重視する」なんて言いながら、結局問われるのは「成果」であることが少なくない。そして、成果として評価されるのは、たとえば「インターンシップで、○○という指標をどれだけ向上させた」といった数字で表せるもの。

でも、人柄や個性を表すのが「数字」だとは限らないじゃないですか。先ほど、「脱ゆとり」したものの、個性や多様性を重視する教育になっている、という話がありましたよね。「個性が大事」と言われるし、それを見出だせず悩む人がいる一方、結局教育の場でも評価されるのは「点数」や「偏差値」といった数字なんですよね。“いい”大学に入るためには、テストで高い点数を取らなければならない。

たしかに、矛盾を感じてしまうかもしれませんね。

田中

「なんだ、結局数字か」と思いながら勉強を頑張って、“いい”大学に入ったら、今度は「勉強しているだけじゃだめだ」と。というのも、就職活動では勉強を頑張ったことは評価されづらいのではないかと感じていて。大学の学業において優秀な成績をおさめた人よりも、学外の活動において「数字」をあげた人が評価される。

結局、学校や企業は私たちに何を求めているんだろう……という気分になります。矛盾しているように感じるんですよね。

個人としても、社会としても「個性」は大事なものだとはわかりつつ、どう定義すればいいのかがはっきりしていないのかもしれませんね。だから、わかりやすい「数字」や「成果」でそれを測ろうとしてしまう。学業の成績や、さまざまな活動の中であげた成果も個人の人の一部だとは思いますが、それだけではないはず。

「個性は大事」と言うだけではなく、個性とは何なのか、それをどう見出すのか。個人としても社会としても、それにもっと向き合わなければならないのではないかと思いました。今日はありがとうございました!

[文]鷲尾 諒太郎 [撮影]須古 恵 [編集]小池 真幸