一人ひとりが「素の声」を取り戻すことから、「共に生きる」が始まる

人は一人では生きていけません。組織の内外にかかわらず、誰しも「他者とともに生きること」が求められると思うのですが、人間関係は難しい。他者との関係を築いていくうえで、悩みは尽きませんよね。

松本

私自身のことを振り返ってみると、他者との関係があまりうまくいかず、心が落ち着かないなと感じるときって、その人と「ちゃんと出会っていない」場合が多いんですよね。

 

どういうことでしょう?

松本

その人の言葉やまなざしにちゃんと向き合えているときは、心も安定するし、よい関係をつくれる。でも、その人自身に出会えていない、つまり、何かしらのフィルターを通してその人を見てしまったり、その人の言葉を聞いてしまったりしているときは、よい関係を築けないことが多かったように思います。

 

何かしらの役割や肩書、力関係を意識してしまうことで、本当の「私」と「あなた」になれていない、ということでしょうか?

松本

そうですね。私は現代仏教僧を名乗っていて、これまでのお坊さんがやってこなかったような取り組みにもチャレンジしているんです。その中の一つが、お坊さんとして企業と関わること。たとえば、ある会社の社員さんたちとは、一対一の対話をしているんです。1on1というやつですね。

何をしているかというと、ただおしゃべりをしているだけ。ですが、「ただおしゃべりをしましょう」と言うと、「何を話せばいいんでしょうか……」と困る方が多いんですよね。やはりみなさん、会社の中では「営業担当」や「マネージャー」といった、自らの肩書きや役割に縛られながらお話をすることが多い。KPIなど、何かしらの数字を達成するための会話が基本になっているわけですね。前編でもお話したような「いまを未来に従属させる」あり方、すなわち何かしらの目的を達成するためだけにいまがある状態になっている。

 

会社内においても「目的」から離れる時間を持つことが大事だと。でも、会社内で求められるのは、それぞれが売上などの数値目標を達成することですよね?

松本

目標達成の観点から考えても、全員が既存の枠組みに縛られながら会話をしていては、望むような結果は得られないと思います。時折それぞれの役割や数字を追うことから離れて、素の声を取り戻すための時間を持つことがクリエイティビティを呼び起こし、イノベーション創出につながるのではないか。そんな仮説から、「ただおしゃべりをする」だけの1on1を行っているんです。

 

「読経」に見る、理想の組織の姿

前編でも「未来から離れ、いまを取り戻す」ための習慣をつくろう、というお話がありました。ただ、特に会社などにおいてはそれってとても難しいことなのではないかと思っていまして。というのも、資本主義の基本的な考え方って「いまあるものを投資することによって、未来の価値を最大化する」というものですよね。現代社会において、「いまが未来に従属する」のは、構造的に仕方のないことなのかもしれないなと。

松本

おっしゃる通りですね。いまの社会において、未来への執着を捨て、いまを生きることはとても難しい。そこで大事になるのが「仲間」なんです。ブッダも同じようなことを言っています。仏教における修行って「一人で滝に打たれる」みたいなイメージを持っているかもしれませんが、そうではなくて、基本的にはグループで行うものなんです。

 

そうなんですね。

松本

仲間たちと励まし合いながら進めるものなんですよ。先ほど、素の声を取り戻すことが大事、というお話をしましたが、さまざまな会社で1on1をやっていると「この部署の方々はみんなが素の声を出せているな」と感じることもあれば、逆のことを感じることもある。つまり、個人単位というより、組織単位で考える必要があると思うんです。

読経も集団で行うことが多いのですが、同じお経をあげているとしても、リズムや音階は人それぞれなんですよね。誰かに合わせなくてはならないというものではないですし、メインもサブもない。さまざまな音階やリズムが存在するけれど、全体としては調和が取れている。組織もそんなポリリズムな、あるいはポリフォニックなものとしてとらえる必要があると思うんです。

 

つまり、チームのメンバーがそれぞれの声を、それぞれらしい音階やリズムで発することで、全体の調和が生み出せるような組織が理想だと。

松本

そして、それぞれの「素の声」やリズムも、そういった環境の中で整っていくものだと思うんです。一人で目的や未来への執着を捨て去り、本来の声やリズムを取り戻すのはとても難しい。だから、私たち僧侶も仲間と修行をするわけです。仲間とポリリズムな、あるいはポリフォニックな組織をつくり、その組織の中にいることで個人の「素の声」は返ってくるのだと思います。

 

「個」ではなく、個と個の「間」にフォーカスする

松本

現在の人材開発は「個」に寄り過ぎているように思うんです。「この人のここが問題だから、こういった研修を受けてもらおう」とか「あの人の調子が悪そうだから、カウンセリングを受けてもらおう」といった発想がベースになっている。でも、そうではなくて、もっと「間」に注目すべきだと思っていて。

 

「間」、ですか?

松本

ベトナム出身の禅僧で、ティク・ナット・ハンという方がいます。アメリカにマインドフルネスという概念を持ち込み、大きなムーブメントを生み出した方なのですが、マインドフルネスの他にも「インタービーイング」という概念を提唱しています。直訳すると「間の存在」となりますが、「相互存在」などと訳されることが多いですね。簡単に言ってしまえば「この世界に存在するものは、すべて個として存在しているのではなく、互いに関係しながら生きている」という考え方。

私たちもインタービーイングな存在です。個人は単独として存在するのではなく、さまざまな個人とつながることによって存在している。つまり、人が集まる場には、たくさんの「間」が生じるわけですね。いま、ここには「私」と「あなた」と当時に、「私とあなたの間」も存在している。

 

多くの会社は、「私」や「あなた」といった個人にばかり注目して、組織を良くしたり問題を解決したりしようとしているけれど、個人や組織をインタービーイングなものとしてとらえ直す必要があると。

松本

はい。個の寄せ集めでは強い組織はつくれないし、イノベーションも生み出せないと思います。先ほど、読経を例に「組織もポリリズムな、あるいはポリフォニックなものが理想」というお話をしました。もちろん、一人ひとりがどんな旋律をどんなリズムで奏でるかも大事でしょう。

しかし、それ以上に大事なのは、それぞれの旋律やリズムが、それらの「間」でどう混ざり合うか。「個」ではなく、「間」に注目することが、組織全体の調和を生むための思考につながり、強い組織をつくることに結びつくのだと考えています。

 

お寺は、本来の自分と出会う場所

ポリリズムな、またはポリフォニックな組織をつくるためにも、一人ひとりが「素の声」を取り戻すことが第一歩になるのではないかと感じました。松本さんが第三者として「ただのおしゃべりをする」こともその手助けになると思うのですが、組織の内部、特にマネジメントをする立場にある人が意識すべきことはあるでしょうか。

松本

それぞれの居場所をつくってあげることだと思います。快適な環境を提供すればよい、というわけではありません。大事なのは、それぞれに役割や出番を与えることです。テンプルモーニングで、みなさんに掃除をしてもらっていることには、そういった意図も含まれています。

 

ただお寺に来て、お茶を出してもらってお話をするだけだと「何もしていないのに、いろいろしてもらっちゃって……」と、少し申し訳ない気持ちになりますもんね。

松本

そういうことです。前編では、掃除は「いま」を取り戻すための習慣になるというお話をしましたが、役割を提供し「私はここにいてもいいんだ」と感じてもらうための装置でもあるわけです。そう感じられれば、気軽にお寺を訪れられますからね。

 

私自身、お寺に来るのはとても久しぶりだったのですが、もっと気軽に足を運びたいなと思いました。

松本

お寺には2つの役割があると感じています。一つは「よき習慣の道場」としての役割。習慣とは、リズムです。みなさん、忙しく生活を送る中でリズムが乱れてしまうことってあるじゃないですか。しかし、お寺に来ることによって、乱れたリズムを整えることができるはず。テンプルモーニングは、まさにそういったコンセプトで開催しています。

リズムの整え方は人それぞれです。一人で黙々と掃除をし、帰って行く人もいれば、顔なじみとおしゃべりしながら掃除をする人もいます。だから、テンプルモーニングはあまりルールを設けないようにしているんです。「こういうことを意識してくださいね」といったことは一切言わず、「ただ掃除をしてもらう」ことが大事だと思っています。

 

もう一つの役割とはどのようなものなのでしょうか?

  

松本

「生きる意味を問い、生きているという経験を取り戻す舞台環境」です。みなさんがブッダのように一切の執着から離れられるのであれば、この役割は必要ないんでしょうけど、実際はそうではありませんよね。私たちはそれぞれの物語を生きる中で、「こう見られたい」とか「こうありたい」という執着を持っています。

執着は目標とも言い換えられますし、目標を追いかけること自体は悪いことではありません。でも、自らの執着を客観的に見る時間も必要だと思うんです。そういった時間を持たなければ、「こう見られたい」「こうありたい」という想いに溺れてしまって、本来の自分を見失ってしまいかねない。お寺に来ることによって、目標を追いかける足を止め、自分自身を見つめ直す時間を持ってもらえれば嬉しいですね。

 

「中道を行く」こそが、いま最もクリエイティブな生き方

ここ1~2年はコロナの流行などもあって、多くの人が自らの生き方や生活を見直さざるを得ない時期だったのではないかと感じています。最後に、このような時代を生きていくためのヒントをうかがいたいです。

松本

「社会の不確実性が高くなった」と言われていますが、もともと不確実だったはずなんですよね。コロナによって、その不確実性があらわになっただけ。ですので、コロナだから、というわけではないのですが、私自身これからを生きていく中で大事にしたいと思っているのが「中道」という言葉なんです。

 

「真ん中」や「偏っていない」という意味ですよね?

松本

そうです。これも仏教の言葉なのですが、若いころはあまりピンと来ていなくて。「真ん中なんておもしろくないじゃないか。俺はもっと尖っていきたい」みたいな(笑)。

でも、「真ん中の道を進むことは簡単でおもしろくない」と言えるのは、世の中が安定しているときだけなんですよ。社会の枠組みがはっきりと決まっていて「右はあっち、左はそっちだから、真ん中はここだ」と言えるのであれば、真ん中の道を進むことは簡単だし、おもしろくありませんよね。

 

そうですね。

松本

でも、仏教の世界で言う「中道」は「世の中は諸行無常である」ということを前提とする言葉なんです。つまり、すべてのものは変化し、消えていくという考えがベースになっている。すべては変化し、消えていく世界の中で、常に「真ん中」を見定め、その道を進むことは簡単ではありません。

コロナによって、私たちはこの世が諸行無常であることを改めて実感したと思います。右や左がはっきり分かる、「真ん中を進むことがつまらない」世界なんてものは幻想だったのだと。

 

たしかに。

松本

どこにも目印になるものがない世界の中で、ど真ん中を探り続けることは、とてもクリエイティブな営みだと思うんです。世界をダイナミックにとらえ、自らの頭で右と左はどちらなのか考え続ける必要がありますから。

諸行無常の世の中で、自らにとっての「中道」を、言い換えれば「ちょうどよい道」を探り続けることが、これからの時代を生きる私たちに求められているのではないでしょうか。

 

[取材・文]鷲尾 諒太郎 [撮影]高橋 団 [編集]小池 真幸