すべてを「一体のもの」としてとらえる、仏教の視線

仏教の世界には「自他一如」という言葉があると聞きまして。「私もあなたも一緒」なんですよね……? だとすると、個性はどのように考えられているのでしょう?

松本

「個を立てよう」とか「個性を発揮しよう」というような考え方は、あまりしないんです。むしろ「一如(いちにょ)(※1)」「不二(ふに)(※2)」という言葉があるように、仏教の世界では「一つであること」が強調され、「個」が注目されることは少ない。

 
※1:
唯一絶対の真理。真如が異なる現れ方をしながら一つのものであること
※2:
対立していて二元的に見える事柄も、絶対的な立場から見ると対立がなく一つのものであるということ

自分と他者を分けて考えないということでしょうか?

松本

「分別がある」という言葉がありますよね。一般的には「善悪の判断ができる」といった良い意味になります。でも、仏教の世界では全く逆のとらえ方になるんです。物事を分けて、バラバラにして認識しようとすることは、人間的な行為。仏の知恵ではないとして、否定的な意味を持つんです。

 

「分けて考えること」をよしとしないんですね。

松本

「それ」と「これ」といったように、物事を見たまま対照的にとらえるのではなく、「分けないこと」が大切だとされるんですね。そうした「無分別智(むふんべつち)」が悟りにつながると言われています。

「分けると分かる」と言われることがありますが、何かと何かを「分けた」上で、それらを理解することを「分別智(ふんべつち)」と言います。仏教の世界では、この分別智では物事の本質を正確にとらえることはできないとされています。

 

ということは、自分と他者を別のものと考えると、本当の自分は見えてこない……?

松本

他者の目を意識してしまうと、本当の個性は発揮できないのではないかと思うんです。誰かのことを気にするから、「周りと同じにしなくては」とか「自分だけの個性ってなんだろう」と悩んでしまう。

自分と他者を分けなければ、そもそも「他者の目線」なんて存在しないわけです。だから、「分けない」という仏の目線を持つことは、本来の自分を表現するためにとても重要だと思います。

 

そうすると、仏教において「個性」は否定されるべきものということになりませんか?

松本

いえ、そういうわけでもないんですよ。そこがおもしろいところで。たしかに、私自身「無分別智を獲得して、悟りに至ったら個性がなくなるのか?」と考えたこともあります。でも、どうやらそうではない。

 

心ではなく「行為」が個性をつくる

どういうことでしょう?

松本

仏様たちにも個性があるんですよ。釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来といったように、いろいろいますよね? 仏様なのだから無分別智を獲得して、悟りに至っているわけなんですけど、名前も違いますし、ちゃんと個性があるんです。

つまり、「分けずに世界を認識する」智慧を獲得した側が、それぞれ個性的になっている。無分別智を獲得し「分けること」に固執することをやめたとき、本質的な「違い」がストレートに現れる、ということなのかもしれませんね。

 

個性を発揮しようとする意識を手放せたとき、はじめてその人本来の個性が現れると。

松本

仏様だけでなく、いま生きているお坊さんたちにも同じことが言えます。修行を重ねているお坊さんたちが、修行の果てに画一的な存在になるかと言うと、そうではない。

熱心な仏教徒が多く住むブータンの友達から聞いた話なのですが、厳しい修行を重ねたマスタークラスのお坊さんたちはすごくストイックに、みんな同じような生活をしているわけではないそうなんです。むしろ、けっこう破天荒で個性的な人が多いみたいで。

 

なるほど。だとすると「個性」は何から生まれるのでしょうか? 「修行を重ねたから」、それぞれの個性を獲得したわけではないんですよね?

松本

よく言われるのは「心」ですよね。すべての人はそれぞれ心を持っていて、それが「その人らしさ」につながっていると。私はずっと仏教に関わってきているので、さまざま宗教家たちと話をしてきました。やはりみなさん「信仰心が大事」というわけです。

でも、私はピンと来なかったんですよね。なぜかというと、心は見えないから。当たり前ですが、とても重要なことだと思うんです。「私の信仰心は、誰よりも強い」と、見えないものを比べようとすることは意味がないというか、結局「言ったもん勝ち」にしかならないじゃないですか。

 

そうですね。

松本

だから、見えないものについてとやかく言うのではなく、目に見えるもの、特に「行為」に注目すべきだと思うんです。ブッダも同じようなことを言っています。

ブッダが生まれたインドには、かつてカースト制度があり、僧侶や司祭は「バラモン」という最上位の身分に位置づけられていました。しかし、ブッダは「人は『生まれ』によってバラモンになるのではなく、『行為』によってバラモンになる」と言っています。生まれながらにして持っているとされる、見えない「心」によってではなく、行為によって人のあり方は決まるのだと。

 

「おそれ」を手放すために、習慣をつくろう

行為こそが、個性をつくると。

松本

仏教には「身口意(しんくい)」という言葉があります。身とは、身体をもって行うこと。口とは、言うこと。そして、意とは思うことであり、この3つはすべて「行為」です。だから「行為が個性をつくる」といっても、いわゆる行動だけではなく、その人が口に出す言葉だったり、思考の内容だったりが、「個性」を形づくっていくのだと思います。

 

以前、松本さんはある対談の中でこんなことをおっしゃっています。

「ずっと変わらない私」というのはフィクションなのです。だけども、その「変わらない」というフィクションを人は信じたいんですよね。(中略)新しいことをするとか、行ったことのない場所に行くとか、今持っている物や場所を失うことがこわい。それがおそれを生みだして、今あるものや関係にしがみついてしまいます。(『変化するのが怖い、他人からの評価が気になる。そんな「おそれ」を手放し、人生の主人公として生きるには?松本紹圭さん・モリジュンヤ対談』より)

行為によって個性をつくっていくということは、言い換えれば、私たちは行為によって私たちを変えていける、ということでもあると思います。一方で、私たちは変化を「おそれる」。この「おそれ」を手放す方法はあるのでしょうか?

松本

私自身、20年ほどお坊さんをやってきまして、その方法についてはいろいろと考えてきたんですよね。ただ、性格的に頭でっかちというか、頭の中でいろいろなことを処理してしまいがちなのですが、それでは「おそれ」は手放せないだろうなと感じてきました。

では、何が大事なのかというと、「習慣」ではないかと。たとえば、お経を読んでいるときや掃除をしているときは、何も考えていないんですよね。あえて分かりやすく言えば「個性的な自分であろう」なんて、少しも考えていないわけですよ。そういった行為を習慣にすることが、「おそれ」を手放すことにつながるのではないかと思っています。

 

目的と未来から“脱出”し、いまを見つめる

先ほど「テンプルモーニング」に参加して境内の掃除をさせてもらいましたが、たしかに掃除をしているときはややこしいことは考えてなかったような……。

松本

そうですよね。お経を読むことにも同じことが言えます。読経って、ほとんど意味は考えていないんですよね。「意味」ではなく「音」としてとらえていて、その音が「不二」のもの、つまりは自らと一体のものとして、口から出てくるわけです。

実は、若いころは「こんな呪文みたいなものを読むことに何の意味があるんだ。現代語にすればいいじゃないか」と思っていました(笑)。最近になって、昔から読みつがれてきたお経をあげ、「意味」から離れる行為を習慣化することの大切さが分かってきたような気がしています。

 

では、そういった行為を習慣化することが、「おそれ」を手放すことにつながるということでしょうか?

松本

はい。意味を別の言い方にすると「目的」になります。私たちは仕事などの日常生活の中で「何かを目指すこと」に縛られすぎていると思うんです。「目的」に飼いならされている、と言ってもいい。言い換えるなら、「未来にいまを従属させてしまっている状態」。つまり、常に「未来のために、いまがある」という考え方に支配されてしまっている。

 

変化に対する「おそれ」も、結局は「私の『いま』は、本当により良い未来につながっているのだろうか」という不安から生じているように思います。

松本

お経や掃除という行為は、そういった未来に対する「おそれ」から、私たちを解放して「いま」に引き戻してくれるんです。たしかに、「いま」に戻るのは一時的なもの。お経や掃除が終わってしまえば、また目的や未来の力が強い日常に戻ることになります。

ですが、戻るから意味がないというわけではないと思っています。私自身、テンプルモーニングを4年ほど続けてきて、確実に変わったことがあると感じているんです。目的や未来にとわられて過ごす時間が、減ってきた気がします。

 

目的や未来にとらわれず、いまを生きるための習慣をつくることが大事なんですね。

松本

もちろん、何かしらの目標を設定して、その目標を達成するために努力する生き方を否定するわけではありません。ですが、そういった生き方から少し離れて、いまを見つめる時間を持つことが、最近の言葉で言えば「ウェルビーイング」を保つために重要なのではないかと思っています。

 

[取材・文]鷲尾 諒太郎 [撮影]高橋 団 [編集]小池 真幸

自他一如という言葉を知ったことからはじまった今回の企画。「他者と違うこと」を追い求めず、「分けない」ことで本当の自分らしさが見えてくることを教えてもらいました。後編では、「現代仏教僧」として多くの企業とも接点を持つ松本さんに、仏教の視点から考える「個が輝く組織のつくり方」などについてうかがいます。

そして、この時代に求められるのは「中道を歩む生き方」だと松本さん。なぜ「真ん中」を歩くことが重要なのでしょう? その言葉の背景には、いまの時代だからこそ知るべき仏教の教えがありました。後編もお楽しみに。