【後編】磯野 真穂
世界に対する「違和感」こそ、自分らしさの種
人類学者が語る、他者と共に歩むためのカギ
2021.09.02
「自分らしさ」はどこにあるのでしょうか? そのありかを探るため、人類学者の磯野真穂さんにインタビューしました。「個性」が人の中ではなく『外』にあることを解き明かした前編につづき、今回お届けする後編では、磯野さんの実体験も手がかりに「自分らしく」生きるための方法に迫ります。
「世界と関わる中で感じた違和感を口に出すことから『自分らしさ』ははじまる」と語る磯野さん。不特定多数の人からの承認を得ようとする『底なし沼』を抜け、「世界との調和」を手に入れるためのカギとは?
( POINT! )
- 他者と「役割を超えた関係性」を築こう
- 「いいね!」の数に一喜一憂しないためには、信念を持つこと
- 信念は、他者との出会いによって形づくられる
- すべては「違和感を口にすること」からはじまる
- 違和感を口にしていると、やがて身の回りの「小さな世界」と調和する
- 「当たり前」を超えた関係性の中に、「自分らしさ」は芽吹く
磯野 真穂
1999年、早稲田大学人間科学部スポーツ科学科卒業。オレゴン州立大学応用人類学研究科修士課程修了後、2010年、早稲田大学文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。専門は文化人類学、医療人類学。書著に『なぜふつうに食べられないのか──拒食と過食の文化人類学』(春秋社)、『医療者が語る答えなき世界──いのちの守り人の人類学』(ちくま新書)、『ダイエット幻想──やせること、愛されること』(ちくまプリマー新書)、『急に具合が悪くなる』(晶文社)などがある。
唯一無二の自分に向き合うのは、怖いこと
前編の最後に、「1+1が2以上になるような関係を築ける人と出会うこと」が自分らしく生きることにつながる、というお話をしていただきました。そうした関係性をつくるためには、どうすればいいのでしょうか?
磯野
役割を超えて関わること、ですかね。人間関係って、役割でできていると言っても言い過ぎではなくて。たとえば、コンビニに行けば「店員」と「客」としての関係があるわけですよね。その関係を超えようとして、店員さんに「あなたがどんな人か教えて?」と語りかけていては、ジュース1本買うのに3日くらいかかっちゃう(笑)。
役割があるからこそ、社会は効率よく回っているわけです。私たちはお互いの個性を消すことによって、便利さを受け取っているともいえます。だけど、誰しも役割にとらわれない瞬間はあるはずなんですよね。そういった瞬間をたくさんつくって、たくさんの人と関わることが大事だと思いますよ。
役割にとらわれない瞬間は、どんなときに訪れるのでしょうか?
磯野
たとえば、予想外の出来事に直面したときでしょうね。嬉しいことであれ、悲しいことであれ、自分がコントロールできない状況に直面したとき、人は役割を離れ、「むき出しの自分」になると思うんですよね。
でも、役割を離れて本当の自分に出会うのって、実は怖いことなんですよ。役割があれば「自分はこういう役割なのだから、いまはこう振る舞えばいいんだな」と判断できますが、役割から離れると、そうした判断ができなくなってしまう。どんなテンプレートにも当てはまらない、完全に唯一無二の自分になったとき、人は「何をすればいいんだろう」と戸惑うことになるでしょう。
それなのに、私たちは学校や職場で「あなたらしく」と言われますよね。「あなたらしく」って、とても便利な言葉なんです。とりあえず言っておけば相手を尊重している感じに聞こえるじゃないですか。
便利な言葉だけど、実はとても怖いと。でも、そうしたときこそ「1+1が2以上になるような関係」を築けるチャンス、ということでしょうか?
磯野
はい。役割を離れ、宙ぶらりんの自分に手を差し伸べてくれた人とは、互いに「自分らしく」生きることにつながる関係を築きやすいと思いますよ。
「いいね!」の数に一喜一憂しないために
磯野さん自身、宙ぶらりんになってしまうような経験はありましたか?
磯野
前に勤めていた大学をやめたたときですかね。それまでは「大学の准教授」という肩書があったわけですが、突然その役割がなくなることになって。まさに宙ぶらりんの状態ですよね。最初は「どうなっちゃうんだろう……」と不安でした。
でも、大学を出ることになってから「あなたがやってきたことは、とてもおもしろい。ぜひ一緒に仕事をしたい」と言ってくださる方が何人もいたんです。そのとき、周囲の人は役割なんてさほど気にしていないんだと思いましたね。また、同時に「あ、わたしがやってきたことって、意外とおもしろいことだったのかも」と気付かせてもらうこともできました。
まさに、周囲の人に「自分らしさ」を発見してもらった。
磯野
ある世界を出た時にはじめて、「自分らしさ」を発見してもらえることってあると思うんです。私の場合、前に勤めていた大学にはなかなかなじめなかった。自分のスキルの無さや不器用さが嫌になりながら、その世界になじもうともがいているときに「いやいや、私には『自分らしさ』がありますから」とは、なかなかならないと思うんですよね。
でも、新たな世界に踏み入ってみると「あなたのここ、めっちゃおもしろいじゃん!」と、驚くほどすんなりと受け入れてもらえることがある。私たちはそういうことを繰り返しながら、自分らしく生きていけるようになると思うんです。
前編で、多くの人がインターネットの中で不特定多数の人に「自分らしさ」を認めてもらおうとするあまり、苦しい思いをしているのではないかというお話がありました。一方で、特定の個人に「いいじゃん!」と言ってもらうことにこだわるのは、「依存」につながる危険があるとも思っています。自分らしく生きるためには、「少数、でも一人ではなく複数」の人からの承認を得ることが、大事だともいえそうです。
磯野
そのとおりでしょうね。私も、仕事上必要なのでSNSは利用しています。でも、不特定多数の人に私の仕事内容やメッセージを届けようとは一切思っていなくて。「届けたい人に届けばいいや」という考えのもとで使っていますね。
「届けたい人」が何によって決まるかといえば、自分の信念だと思っています。つまり、「やりたいこと」によって、誰に届けたいのかが決まる。私は幸い、人生を通してやりたいことがはっきりしてきたので、もちろん日々迷いはありますが、届けたいメッセージの内容と人びとがだんだんぶれなくなってきました。不特定多数の人から「いいね!」と言ってもらいたい気持ちを手放すことが上手になってきたと思います。
その信念は、昔から持っていたものなのですか?
磯野
いえ、そんなことはないですよ。信念って、人の生きてきた軌跡を結晶化させたようなものだと思っています。つまり、いろいろな人との出会いによって、徐々に形づくられる。その意味でも、やはり「自分らしさ」は他者と生きることによって生まれるものだといえると思いますね。
違和感を口に出すことから、はじめよう
磯野さんは著書『ダイエット幻想──やせること、愛されること』でこんなことを書かれています。
“自分らしさを見出したいのなら、自己分析をするよりも、世界と具体的に関わり、その中であなたと世界の間に何が生成されるのか、それにどんな意味があるのかを身体全体で感じ取れる力を養った方がいい“(『ダイエット幻想──やせること、愛されること』(ちくまプリマー新書)191頁)
これまでのお話を通して、自己分析をしても「自分らしさ」は見つけられないという部分は理解できました。つづく「あなたと世界の間に何が生成されるのか、それにどんな意味があるのかを身体全体で感じ取れる力」は、具体的にどうすれば養えるのでしょうか。
磯野
まずは、違和感を口にすること。そして、その違和感を追求してみることではないでしょうか。
違和感を見過ごさないことが大切だと。
磯野
私自身の経験をお話します。大学4年生のころに卒業論文を書いていたのですが、大学生に調べられることには限界がありますし、たいていのことはすでに調べられていて。やればやるほど「なんで卒論を書かなければならないんだろう」と分からなくなってしまいました。それで私、悩みに悩んだ末に、ゼミの先生になんて言ったと思います?
え、なんでしょう?
磯野
「卒論は『なぜ卒論を書かなければならないのか』をテーマにしたい」と言ったんですよ(笑)。
それはまた大胆な……(笑)。
磯野
そう思いますよね。実際、大学を出てから友人たちにこの話をすると、たいていの人に「私の卒論の方がよっぽどマシだ」と笑われました。でも、そのときはじめて「あ、私がやったことはこんなにも笑われることだったんだ」と気付いたんです。
というのも、「テーマを『卒論』にしたい」という私からの相談を、ゼミの先生だった中村好男先生はまったく笑わずに「とても大事な疑問だから、そのまま書け」と言ってくれて。振り返ってみると、そのとき笑われなかったことは、その後の私にとって大きな経験だったなと思うんです。あのとき中村先生が「そんなこと書いてどうする」と私の違和感を笑っていたら、私は世界と関わる中で感じる違和感に、言い換えれば「私と世界の間に生成されるもの」やそれが持つ意味に、無頓着なままだったかもしれない。
違和感を追求した先に、やがて「調和」が訪れる
大きなきっかけを与えてくれた存在だったんですね。
磯野
私が前に出した本『なぜふつうに食べられないのか──拒食と過食の文化人類学』の帯を書いてくださった文化人類学者の波平恵美子先生も、背中を押してくれた一人です。私が摂食障害の研究をはじめたとき、すでに先行研究がたくさんありまして。先輩方の中には「その領域はもう研究し尽くされている」と言う人もいたのですが、波平先生は「何かが研究し尽くされるなんてあり得ない。あなたの問題意識はとてもおもしろいんだから、やりたいようにやりなさい」と言ってくれたんです。
違和感や疑問を口に出すと、それを追求することを後押ししてくれる人が現れる。
磯野
「それ、おもしろいからやってみなよ!」と、私が私の軌跡を描き出すことに伴走してくれたんです。だから、自分が世界と関わる中で感じた違和感や素直な気持ちを口に出してみることは大事だと思っていて。そうすれば、それに反応してくれる人が現れる。そんなときこそ、その世界と調和しているといえるのではないでしょうか。
世界との調和、ですか。
磯野
「自分らしさ」って、世界と調和したときに発揮されるものだと思うんですよ。たとえば、卒論を書いているときは、違和感を口にしつづけ、形にする環境をつくってくれる人がいたので、その世界とは調和できていたわけです。そういう人たちに背中を押してもらいながら、どんどん世界と関わっていく。そうして、自分と世界との間に生成されるものやその意味を感じ取る力を養っていくのが大事なのだと思います。
違和感を口にしていると、やがて世界と調和していくと。
磯野
それから、自分が調和できる世界のサイズには限界がある、という点も大事です。たとえば、1万人の従業員がいる会社の社長が、自社の社員全員と調和できると思います?
うーん……全員と調和できるイメージは持てないですね。取締役会とか、限られた範囲であれば、そのメンバー全員との調和は実現できるのかもしれませんが……。
磯野
そうですよね。結局、大きな世界は小さな世界が集まってできているわけなので、周りの小さな世界との調和を考えることが大事なのだと思いますよ。逆に言えば、いまいる小さな世界に違和感を覚えたら、別の世界との調和を探しに行ったっていい。
ときに傷つけ合いながら、「自分らしさ」を手に入れる
磯野
ただし、人と出会うことの怖さも知っておかなければいけないと思います。人と出会うということとは、自分以外の何者かが、自分の内側に入って来ることですから。その怖さは、いわゆる「恐怖」だけを意味するわけではありません。何か楽しいことが起きる予感がしたとき「わくわくする」と言うように、ポジティブな感情も含みますが、基本的に人と出会うことは怖いことだと思います。
それでも、私たちは人と出会わなければ、「自分らしく」生きることはできない。
磯野
だからこそ、私たちはルールをつくるんです。分かりやすいのは法律。他にも、たとえば文化は「恋人同士ならこう振る舞うよね」「家族とはこう接するべきだよね」といった暗黙のルールを形づくっています。
他者と出会うことは怖いけど、人間は他者との出会いなくしては生きていけないから、出会いの怖さを減らすために、たくさんのルールを設けているのだと思いますよ。
なるほど。ルールなしでは、私たちは「自分らしさ」を見出してくれる他者とも気軽に出会えない。
磯野
そうですね。でも、人と人との間には、法律や文化の枠組みにはまりきらない個別の事情もあるわけです。たとえば、恋人同士の約束事を、法律や一般論だけで決めようとするのは無理があるじゃないですか。必ず既存のルールからはみ出す部分はあるわけで。
そのはみ出した部分を調整するのって、めんどくさいんですよ。でも、関係を続けるために自分たちだけのルールを定めようと言葉を尽くそうと思える関係にこそ、価値がある。
「当たり前」や一般論を超えた関係になったときは、傷つけ合うこともあるでしょう。それでも、互いにそれぞれが描く軌跡に伴走する覚悟を持てた時、その関係性の中に「自分らしさ」は息づくのだと思います。
[取材・文]鷲尾 諒太郎 [撮影]高橋 団 [編集]小池 真幸