個性的=変わった生き方?

日本では「個性的に生きる」ことが良しとされる一方で、「出る杭は打たれる」という言葉があったり、「もっと周りに合わせることを覚えなさい」と言われたりもしますよね。一体どうすればいいんだ……と、悩んでいる人も多いと思うんです。

近藤

「個性的な生き方」というと、つい奇抜な、変わった生き方を想像してしまいますよね。

たしかに。

近藤

でも、「個性的」とはそういう意味だけではなく、「自分に向いている生き方をする」のも「個性的に生きる」ことだといえると思うんです。そのために、まずは「自分に何が向いているのか」を知る必要があるのではないでしょうか。

でも、何が自分に向いているのかを知るのって、けっこう難しいですよね……。

近藤

そうですね。一体何が自分に向いているのか、何をすることが自分らしいことなのかと悩む方も多そうです。それを知るためにも、いろいろな経験をしてみることがヒントになると思います。あるいは、さまざまな知識をつけること。

私の場合、日本を出て、ニューヨークという比較対象ができたことで、自分自身について気づいたことも多かったです。環境を変えることは自分を見つめ直すきっかけにもなりますし、「自分に向いていること」を知るための選択肢の一つだと思いますよ。

ニューヨークに渡って、自分に向いていることに気づけたと。

近藤

ニューヨークに移り住む直前は、描きたい主題がなくなって悩んでいた時期でした。個展を開いたり、海外でも作品を発表したり、いろんな機会をいただいたのですが、それらが一段落したとき「あれ? 私は何がつくりたいんだっけ?」って。そういう状態になるのは初めてだったので、とても慌てました。焦りを感じる中で、改めてアートの勉強をしたいと思って、留学を決めたんです。

『ニューヨークで考え中』1巻12-13ページ(提供:亜紀書房)

ニューヨークに行って、焦りはなくなりましたか?

近藤

環境を変えたことで、いろいろな考えを持った人に出会い、「そういう考え方もあるんだな」と、考え方の幅が広がりました。「こうあるべき」という定型がなくなると、とても楽になりますね。そうこうしているうちに制作の主題も見えて来ました。

「個性的だね」は褒め言葉じゃない?

キャンベル

日本で暮らしていて、ずっと思っていることがあって。それは、「あの人って個性的だよね」という言葉が、必ずしも褒め言葉ではないということ。誰かを指して「個性的」というとき、「なんとなく憧れはあるけど、自分の近くにいて欲しいとは思わない」というニュアンスを感じるんですよ。

 

わかります。

キャンベル

特に学校や職場で「個性的」という言葉が使われるとき、そういったニュアンスはより強くなるかなと。それには理由があると思っていて。ぼくは2021年の3月まで、国文学研究資料館という研究所の館長を務めていました。そこには世界中の研究者が集まり研究を進めていて、ぼくは研究者たちをまとめる立場だったわけですが、それこそ研究者って個性のかたまりのような人たちなわけですよ。

 

なんとなくイメージはできますね……(笑)。

キャンベル

そんな人たちをまとめながら研究の計画を進行していかなければならない中で、個性について考えることがよくあって。特に考えさせられたのは、コロナ禍です。感染者を出さないために、研究のオペレーションも大きく変えざるを得ませんでしたが、退任まで感染者を出さず、なんとか研究もほぼ計画通りに進められたんです。これは、あえてこの言葉を使いますが、みんなが“個性的”じゃなかったから実現したのではないかと。

 

“個性的”じゃなかった?

キャンベル

自分勝手な行動をしない、と言い換えてもいいでしょう。私の妹はアメリカの病院に勤めていて、妹からアメリカで起こっていることをよく聞いていたんです。人口あたりの感染者や死亡者数を比べると、日本よりアメリカの方がどちらの数値も高いですよね。妹からは医療現場で起こっている、血の気が引くような話も聞いていて。

 

近藤

ニューヨークも一時は1日に1,000人以上の方が亡くなるという大変な状況でした。

キャンベル

一方で日本は、アメリカのような状況にはならなかった。重症化を防ぐ“ファクターX”が存在すると言われていますが、その一つは「みんなが“個性的”じゃないこと」だと思っているんです。つまり、みんなが決められたことをしっかりと守るということですね。街を歩いていても、みんながしっかりとマスクをしている。それは、博愛主義的な考えからくるものではなく、自律性の高さから生じる行動でしょう。

 

「個性的であること」よりも、人に迷惑をかけないことや規律を守ることを重視する人が多い、ということでしょうか?

キャンベル

はい。人に迷惑をかけないことや規律を守ることを重視して生きてきた人にとって、「個性を発揮しなさい」ということはストレスになると思うんです。

だから、先ほどの近藤さんのお話ではないですが、自分だけが持つ個性についてあれこれ考えを巡らせるより、自分に向いている生き方、「自分らしく生きること」について考える方が良いのではないかなと思います。

 

自分らしく生きるために、「コア」を見つけよう

では、「自分らしく生きる」ために大事なことは何だと思いますか?

キャンベル

コアを持つことです。ちょうどいま、手元に本屋さんから届いたばかりの本があるのですが、これは18世紀ごろの日本で、今でいう小学生が実際に使っていた教科書のようなものです。試し書きがたくさんされていたり、名前が書かれていたり。あと、本の端っこに黒い汚れがついているのですが、見えますか?

 

あ、たしかにありますね。

キャンベル

これは手垢なんです。今と違って、教科書は使い回すものだから、何十もの人が同じところに触るうちに汚れがつく。これは、数百年も前に生きていた人びとの、生きた痕跡なわけです。文字や数字などのようなわかりやすい情報ではありませんよね。でも、こういう情報とも言えない情報から読み取れることもある。

私はこうした痕跡を発見し、それを読み解いたり分析したりして、いまの言葉に置き換える行為に無上の喜びを感じます。それこそが、ちっぽけかもしれないけど、ぼくのコアになっているんです。テレビに出させてもらったり、講演会に呼んでもらったり、いろんな仕事をしていますが、立ち戻れるコアがあるからこそ、そうしたチャレンジができるのだと思っています。

 
取材時に見せていただいた古書。左下の部分が手垢で黒く変色している(キャンベルさん撮影)

コアというとぼんやりとしたもの、たとえば「社会に貢献する」といったようなことを思い浮かべますが、そうではなくて「過去に生きていた人の生きた痕跡に触れ、そこから情報を見出す」といった具体的な、手触りのある行為なんですね。キャンベルさんはいつごろそのコアを見つけたんですか?

キャンベル

20代後半ごろですかね。日本に来て最初に住んだのは福岡で、それから東京に来て、また調査で全国をまわることを繰り返していました。そんな中で、昔の方々が残した痕跡に触れ続けられる環境にいないと自分の生き方の基準というか、コアができていかないように感じたんですよね。何をすべきか迷ったとき、立ち戻れる場所がわからなくなってしまうというか。

 

コアは、悩みやコンプレックスから離れるための"非常口"になる

そうして自分のコアを形成していった。

キャンベル

なんというんでしょう……コアを持つと「自分らしくしよう」という考えすらも捨てられるんですよね。みなさんも日々やるべき仕事をやったり、それこそ「自分の個性ってなんだろう」と悩んだりしているわけじゃないですか。「これが自分のコアだ」と思えるものや行為を見つけられると、それに関することをやっている間は自分のコンプレックスだったり悩みだったり、いろんなものから離れられる気がするんです。つまり、非常口のような役割を果たしてくれる。

 

なるほど。

キャンベル

ぼくの場合、それが仕事にもなっているので、専門的な知識を持つことにもつながっていますが、「高い専門性を持とう」という話ではなくて。趣味でもなんでもいいんですよ。「これが自分のコアだ」と思えるものに簡単に出会えるわけではありませんが、いろいろと経験する中でも、ずっと自分の中に残り続けているものを大切にすることが重要だと思いますね。

 

近藤

先ほど私は、自分に向いていることを知るためのきっかけとして、環境を変えてみることをおすすめしました。キャンベルさんのお話をうかがいながら、「環境を変えても、自分の中に残り続けているもの」を知るという意味でも、環境を変えることはやはり大事なのかもと感じました。

キャンベル

おっしゃるとおりですね。いずれにせよ、いまいる環境の外に出ることは、自分のコアを見つけるための、とても良い選択肢だと思いますね。

 

寛大な日本社会に潜む「見えない差別」

キャンベルさんは日本に来て、ご自身のコアを見つけたわけですね。

キャンベル

日本で過ごすのは身体的に楽なんですよ。前編でもお話しましたが、身体が危険にさらされる機会が圧倒的に少ない。でも、そのかわり「見ざる、言わざる、聞かざる」傾向がある。つまり、みんなが差別などの問題について、見て見ぬ振りをしようとしている感じがするんです。マイノリティの人が自分の個性をポロッと出したとき、身体的に攻撃を受けるわけではないけれど、急にその人の周りから空気がなくなっていってしまうような。

 

直接的な差別はないけれど、「触れてはいけないもの」として敬遠されてしまう感じでしょうか?

キャンベル

はい。もちろん、ここ数年は私も「多様性」に関する講演を依頼されることが増えましたし、みなさんが真摯に平等に向き合おうとしているとは思います。でも、一つひとつの問題はなかなか解決できていない。

 

なぜだと思いますか?

キャンベル

日本という国の特性なのかもしれませんが、政治や行政など、社会の仕組みを形づくるレイヤーでのルールづくりがうまく機能していない。というか、苦手なのだろうと思います。

 

近藤

現在の日本の状況が体感的には分からないのですが、身近なところでは良い変化を感じています。私の義理の娘(アメリカ人の夫の娘)は22歳なのですが、彼女たち若い世代の方が多様性に関する問題には敏感です。

家族でテレビを観ている時、「この人の発言はこういう観点からダメだ」と、私たち夫婦は見過ごしていた点を指摘することもあります。BLMのきっかけとなったジョージ・フロイドさん暴行死事件など、根強い黒人差別を目の当たりにする一方で、彼女の姿を見ていると、「アメリカは変わる」「未来は明るい」と思えます。

『ニューヨークで考え中』3巻22-23ページ(提供:亜紀書房)

キャンベル

そういった若い世代を見習って、みんなが声をあげなければならないと思うんです。政治的な発言をしていると「日本の社会は玉虫色。さまざまなものを受け入れる寛大さがあるのだから、何もルールを変える必要はない」「あなたの国と違って、日本ではマイノリティに対する暴力はないのだし、ほっておいていいじゃないか」と言われたりします。でも、そんなことはないんです。実際は、多くのマイノリティの方々が苦しんでいる。その現実に蓋をするのは、もうやめにしなければいけないと思います。

 

[取材・文]鷲尾 諒太郎 [編集]小池真幸