【前編】磯野 真穂
個性はあなたの『外』にある
他者とのかかわりの中に「自分らしさ」を見出す、人類学のまなざし
2021.08.26
本当にあなたの中に個性があると思いますか?──その人は、とても明るく、にこやかに、私たちの常識を揺さぶる問いを投げかけました。お話をうかがったのは、人類学者の磯野真穂さんです。
個性はどこにあるのか。このシンプルだけど難しい問いに対して、磯野さんは「個人」と「個性」の歴史をひもときながら、大きなヒントをくれました。これまでのイメージが大きくひっくり返される、自らの『外』にあるものとしての個性を考えます。
( POINT! )
- 「個性」は新しい考え方で、日本に入ってきたのは明治時代
- ヨーロッパでは『個性』という考え方が根付くのに千年かかった?
- 「個性」の意味は、社会や組織によって違う
- 不景気とインターネットが「自分らしさ」の呪縛を生んだ?
- 「自分らしさ」は、自分の中にはない
磯野 真穂
1999年、早稲田大学人間科学部スポーツ科学科卒業。オレゴン州立大学応用人類学研究科修士課程修了後、2010年、早稲田大学文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。専門は文化人類学、医療人類学。書著に『なぜふつうに食べられないのか──拒食と過食の文化人類学』(春秋社)、『医療者が語る答えなき世界──いのちの守り人の人類学』(ちくま新書)、『ダイエット幻想──やせること、愛されること』(ちくまプリマー新書)、『急に具合が悪くなる』(晶文社)などがある。
明治時代になるまで、日本人に「個性」はなかった
今日は「個性」について、いろいろとおうかがいできればと思っています。
磯野
個性、ですか……。
さっそく何か言いたげな感じですね(笑)。
磯野
いえいえ、そう構えないでください(笑)。でも、まぁたしかに言いたいことはあって。「個性」という言葉が使われるとき、「一人ひとりに、その人しか持っていない個性が宿っていて、それを開花させることが何よりも素晴らしい」というニュアンスが含まれがちですよね。
はい。私もそう思っていますよ。
磯野
では、日本で個性という考え方が生まれたのって、いつごろだと思いますか?
え、ずっと昔から、じゃないんですか……?
磯野
じつは日本で「個性」という考え方が生まれたのは、どんなに早く見積もっても明治時代、つまり近代になってから。歴史の中では、つい最近のことなんです。それをさも絶対に正しい真実のように語るのは、違和感がありますね。
経済的なつまずきが、「自分らしさ」信仰を生んだ?
磯野
もっと言えば、「個性」を「自分らしさ」という言葉に置き換えて考えてみると、それが褒めたたえられはじめたのは、平成に入ってからです。
さらに最近のことですね。
磯野
あくまでの私の推測なのですが、「自分らしさ」への賞賛と日本経済が傾きはじめた時期は重なっています。「Japan as No.1」と言われた80年代を経て、90年代に入りバブルの崩壊などを経験した日本人は「これまでのやり方ではダメだったんだ」と気付くことになりました。当時を知る大企業経営者に話を聞いたところ、バブル崩壊後はたくさんの欧米の経営者たちが日本に招かれたそうです。
それまで従来の日本的な、昭和的なやり方への反省が、海外から経営者を招く動きにつながったのだろうと思います。「これまでのやり方は間違っていた。これからは欧米に学ぼう」と。
経済成長が止まったとき、欧米的な考え方や働き方を取り入れはじめた。
磯野
そうですね。それから徐々に長時間労働を良しとする考え方や、最近は敬遠されがちな男性らしさ、女性らしさといった「昭和的な考え」が全否定されていく。本当は昭和的なものの中にも良いものはあったはずなのに、新しいものと折衷するのではなく、全部ひっくり返してしまったんですよ。
「それって“昭和”だよね」という言葉は、いまや相手をディスる言葉になっていますよね。「昭和=古い=ダメなもの」になってしまったわけです。そうして、昭和的な男らしさや女らしさに変わって、欧米的な個人主義や「自分らしさ」が持ち上げられるようになったのだと思っています。
ヨーロッパでは、「個性」が根付くまで千年かかった?
いきなり意外なお話ですね。日本ではない国では、どうなのでしょう?
磯野
フランスの人類学者マルセル・モースという人が、ヨーロッパにおける人の概念の成立、つまり「個人」について興味深い話を残しています。モースは、「個人」という概念の萌芽は、古代ローマであっただろうと資料から推測します。
そんなに古いんですね!
磯野
モースがそこに萌芽の根拠を見る理由は、法の成立です。それ以前は、人間というのは社会の中で与えられた役割を担うパーツのようなものだとみなされていて、「個人」という考え方はありませんでした。一方で、ローマ帝国の時代に歴史上はじめて「法によって人を統治する」という考え方が生まれました。ただ、法は一人ひとりをおさめるものなので、「個人」がいなきゃ困るわけです。
「個人」という考え方は、法によって効率よく人びとを治めるために生み出されたものだと。
磯野
はい。でも、「それぞれが意志や個性を持った個人」という考え方が根付いたのはもっと後で、19世紀前半だとされています。キリスト教や、17世紀から18世紀にヨーロッパで広まった啓蒙主義(伝統的な偏見や迷妄を打ち破って、近代的な合理主義・理性重視を主張し、またそれを一般に普及しようという考え)などの影響を受け、人びとは「個性」を持つに至ったと、モースは言っています。
世界的に見ても、「一人ひとりがその人にしかない個性を持っている」という考え方が“根付いた”のは、ほんの300年前でしかない?
磯野
そういうことになりますね。しかも、ローマ時代から千年以上かかってようやく、ヨーロッパに根付いたものなわけです。「日本は個人主義が根付いていない」とか「日本社会は個性が活かしにくい」と言われることが多いと思うのですが、そんなことは当たり前で。だって、日本は明治時代になってから「個人」や「個性」という考え方をヨーロッパから輸入したわけで、まだ200年も経っていないんです。
「個性」の意味は、社会や組織によって違う
磯野
だからこそ、私たちはもっと慎重に向き合わなければいけないと思うんですよね。「個性」や「多様性」という概念が、ちょっと持ち上げられすぎているのではないかと思うこともあって。
そもそも私たちは、この社会で生きていくうえで何でも好き勝手にやっていいわけではありません。極論ですが、殺人事件の犯人が「人を殺すことが私の個性だ」と言ったとしても、その個性を認める人なんていませんよね?
もちろんです。
磯野
「これが私の個性です」と言うには、社会から認められる必要がある。少し抽象的な言い方をすれば、個性は「社会的な合意」から逃れられないんです。だとすれば、社会としてどんな特性を個性と認めるのかを考えなければいけませんし、そのためにはまず、「その特性を個性と認めた先に、どんな社会をつくり上げたいのか」を議論しなければならないはず。でも、前提となる議論がすっ飛ばされている印象があるんです。
なるほど。個性のあり方は、目指している社会のあり方によって変わると。
磯野
それなのに、多くの人が「とにかく個性は素晴らしいものだ!」という論調になってしまい、周りの人や社会のことが目に入らなくなってしまう。社会のあり方について議論が深められていないのに、「個性ってなんだろう」と考えていても、しょうがない気がします。
私はかつて人事として組織づくりに関する仕事をしていたのですが、会社組織においても同じようなことが言えそうですね。
磯野
そうですね。ある組織において何を個性とするかは、「その会社がどんな組織をつくりたいのか」によって決まるわけです。
たとえば、ある社員が突然、会社を脱走して戻って来なくなったとしますよね。そういった行為を「それもあいつの個性だよね」と認めるのか、「いやいや、絶対ダメでしょ」とするかは、どんな組織をつくりたいかによる。何が個性なのか、何を「自分らしさ」とするかは、その人が所属している組織や社会によって、相当程度規定されるものなのだと思っています。
「自分らしさ」という呪縛
「自分らしさ」すらも、社会や組織によって変わると。
磯野
加えて難しいのが、社会が「自分らしさ」とはなにかを教えてくれわけではないということ。そもそも、仮に誰かが「あなたらしい生き方」を教えてくれたとして、それに従った瞬間、それは「自分らしい生き方」ではなくなるわけですよ。だって、それは誰かに与えられた「自分らしさ」なわけですから。
明確な定義も、How Toもない。「自分らしさ」って、じつはとても人を惑わせる言葉だと思います。だからこそ、大勢の人が「どうしたらいいの……」となってしまい、「自分らしさ」の呪縛にとらわれて苦しんでいるのではないでしょうか。
うーん、なかなか厳しい状況ですね。
磯野
先ほど、「男らしさ」「女らしさ」という言葉に触れました。私も従来の男性像、女性像を誰彼かまわず押し付けるのは良いとは思いません。だけど、「男らしくすること」や「女らしくすること」には明確なHow Toがあって、わかりやすいんですよね。だから、たまにこう思うんです。「男らしさ」や「女らしさ」を強要されることと、「自分らしくあること」を押し付けられるのは、果たしてどっちが苦しいんだろうと。
自由だからこその苦しさ、といいますか。
磯野
最近は「アテンション・エコノミー」(人々の関心や注目の度合いが経済的価値を持つという概念。たとえば、SNSにおける「いいね!」の数などが、金銭と交換可能な価値を持つ状況を指す)の影響で、より一層「呪縛」が強くなっているように思えます。「自分らしさ」を発揮して、たくさんのいいね!やフォロワーを獲得するインフルエンサーたちが登場したことによって、「自分らしく」あることの価値がぐっと上がりました。でも、実際にたくさんのフォロワーを獲得できるのは、ほんの一部の人たちだけです。
「自分らしさ」は自分の外にある
でも、どのような文脈であれ、多くの人が「自分らしく生きたい」と感じていることは事実だと思うんですよね。
磯野
もちろん、そうした想い自体を否定するつもりはありません。ただ、「個性」や「自分らしさ」を求めて、自分の内面に向き合うだけでは、答えは出てこないでしょう。「個性を活かす」あるいは「自分らしく生きる」ということは、「他者とともにある」ことでのみ可能になると思っています。
他者と関係する中でこそ、個性は発見される。「あなたのこういうところ、めっちゃおもしろいじゃん!」と言ってくれたり、「ここがあなたのいいところだよね」と認めてくれたりする人をどれだけ見つけられるかが、カギだと思います。「自分らしく生きる」には、ある特性を「自分らしさ」だと承認してくれる他者の存在が不可欠です。
なるほど……自分ではない人に認めてもらってはじめて、「自分らしさ」になると。
磯野
そうです。ともに予期せぬ出来事に相対したとき、その出来事の中で突然現れた自分の特性を「何それ!おもしろいじゃん!」と言ってくれる人と巡り会えた人は、「自分らしく生きている」と言えると思うんですよ。そして、そう言ってくれる人は、少数でいい。
SNSなどで「こんな賞を取りましたー!」と投稿して、「いいね!」をくれるたくさんの人も大事かもしれませんが、そうではなくて。「あなたのここがおもしろい」「一緒にいるとわくわくするね」と言ってくれる人を見つけることが、自分らしく生きるための方法だと思います。
一緒にいることで、互いに発見があるような。
磯野
そうですね。1+1が2以上になるような関係を築ける人と出会うことが大事なのだと思います。1人でも多くの人とそういう関係性をつくれれば、「自分らしく」生きることにつながるのではないかなと。
[取材・文]鷲尾 諒太郎 [撮影]高橋 団 [編集]小池 真幸