【前編】香山 哲
『レタイトナイト』漫画家に聞く。私たちが旅に出る意味
ファンタジーと現実の重なるところ
2024.10.10
「ここではないどこかへ」「誰も知らない場所に行ってみたい」
未知なるものへの憧れと寂しさを合わせ持つ「旅」という言葉は、なぜいつも私たちに魅力的に響くのでしょうか。
ドイツ移住での特に何もしない日常を描いた『ベルリンうわの空』の著者、香山哲さんの最新作『レタイトナイト』の舞台は、海に挟まれた4つの国。物々交換とお金の流通が半々の世界だけれど、農業に必要なカカシの価格が高騰してしまい、何かがおかしい…。そんななか住みなれた家と町を出る主人公の少年は魔法の力も弱く、特別な力も持っていません。それでも旅に出るのはなぜでしょう。
私たちにとって旅はどんな意味があり、ファンタジーと現実はどのようにリンクしているの?ベルリン在住の漫画家、香山さんにお話を聞きました。
( POINT! )
- 漫画で旅を描く意味
- 今の人間の暮らしが絶対ではない
- システムによって人間の気持ちも変わる
- 様々な形の格差がある
- 今の状態が気に入らなければ旅に出る、逃げる
- 旅には生まれ直しの効果がある
- 逃げるのは悪いことではない
香山 哲
漫画家。『香山哲のファウスト1』が2013年に第17回文化庁メディア芸術祭マンガ部門審査員推薦作品に入選。『心のクウェート』がアングレーム国際漫画祭オルタナティブ部門ノミネート。『ベルリンうわの空』が宝島社「このマンガがすごい!2021」オトコ編第10位、第24回文化庁メディア芸術祭審査委員会推薦作品に選出。ドイツ、ベルリン在住。他の著書に『香山哲のプロジェクト発酵記』(イースト・プレス)、『レタイトナイト』1巻(トゥーヴァージンズ)。『レタイトナイト』は路草で連載中。
ばくち場で売る「1串3銭」の串
『レタイトナイト』1巻の帯には「生きるための旅に出よう!」とありますね。読んでいると「生きること」「生きていく手順」について考えたくなります。
香山
空想の世界を描いているとはいえ、現実の世界を生きた経験から作っているのでそう思ってもらえるのはありがたいです。
ばくち場の様子や売っている串の値段が具体的にわかるところも面白いです。「どんな宿や食べ物があるのかな」と自分が旅をしているような気持ちになれて。
香山
僕が知らない国に行ったとき、実際こんなふうにしているなという感じで描いています。いきなり10連泊するんじゃなくてまずは1泊して、虫が出ないかなとかエアコンがちゃんと使えるかなとか。そういうのを見てから連泊するようにしたり。
そういう旅も時間がないとなかなかできないので、漫画でちょっとでも「こんな感じかな」と味わえるといいなと思っています。
香山さんの『ベルリンうわの空』でも、自分が知らない街に住んで日常を営んでいるような気持ちになれました。『レタイトナイト』の世界観は以前から持っていたんですか?
香山
物語自体は、今回オリジナルで考えました。ただ、作家には多いと思うんですけど、よく描くモチーフや世界があって、同じ世界を別角度から描くことがありますよね。そういう感じで、以前作ったものに新たに取り組む感じでもあります。
モデルにした特定の時代・地域があるわけではなくて、いろんな時代・地域を参考にしています。僕らが当たり前に思う「穀物を育てて、粉にして練って火を通す」とか「人々が都市を形成して定住する」みたいなことも、時代や場所によっては全然当たり前ではないことがあります。特に1000年以上前の歴史をみると「こんな形で人間たちが繁栄してる!」と驚くことも多いです。そういういろんなものがにぎやかに登場する漫画にしたいと思っています。
「システム1つで人間の気持ちは変わる」
人間のどんな文化に驚いたんでしょうか。
香山
たとえばちょうど、うにくえでも奥野先生が紹介していたプナン(ボルネオ島の狩猟採集民)の暮らしとか。僕は『人類学者と言語学者が森に入って考えたこと』という本でカバーイラストを描く機会をいただいて知ったんですが。契約が当たり前の現代で、所有がなくても社会が形成できるというのは驚きだし、勉強になります。他にもたとえば、100年ほど前に実験された「価値が落ちていくクーポン」をお金として使う実験(*1)とか。
何も持たず、分け与えるとビッグマンになる。
文化人類学から「生きる」を考える…
「価値が落ちていくクーポン」って、腐るお金みたいな感じですよね。
香山
そうです。ため込んで使わないと損になるので、消費が活性化されるかどうかが実験されました。今の形じゃなくても人間は幸せにやっていけるし、システム1つで人間の気持ちも変わるんですよね。
狩猟採集生活から定住して農耕をはじめたことで、今の生活スタイルが生まれています。でも定住することで土地の争いが起こって、戦争など今の問題や困りごとにもつながっています。すべての起源がそこにあるわけではないけど、そういうことを知るのも、視野を広げるきっかけになります。
『レタイトナイト』の主人公カンカンはそういう知識を持っているわけではないけど、生きづらさを増していく社会に疑問を感じて、生まれ育った町から外に出ていきます。魔法がある世界ですが、カンカンが異能の持ち主でないのはなぜでしょう。
香山
僕自身がそういう感じだからだと思います。社会では様々な仕組みが細かく動いています。税制とか刑罰とか、雇用を安定させる仕組みとか。仕組みには形や重さがないけど、誰かが作ったものではあるので、不具合や修正の必要があるかもしれませんよね。普通は「仕組みがあってくれて助かる」と感じるようなところで、「これはさすがに都合よく仕組まれている気がする…」と、疑問を感じるような主人公です。
格差をなくそうとする人、気にしない人
カンカンの住む町で、獣よけのカカシの価格が農家の人たちが買えないほどに高騰してしまっています。格差が広がっているのでしょうか?
香山
広がる格差とは、世代を経て差が累積していくようなタイプのものですよね。現実でもそうですが、お金によって加速するにしろ、元々土地や技術など様々な形で格差があると思います。いつの時代でも、そういう不公平感や人々の感じる苦楽が前の時代より強まったり弱まったりしていろんな方向の変化が生まれます。閉塞感とか解放感とか、ムードとして時代に漂う感じです。
そんななかで早めに「こんなの、もうやってられない!」という人がいたり、そうでなくても「なんか最近おかしくないか?」と思う人がいたり、全然変わらない人たちがたくさんいたり。いろんな立場の人がいて個人差がありながら「ざわざわ」していく人間の世界の様子や、そこでの各人の立ち回りが描けたらうれしいです。
私たちの社会にも同じように、息苦しさを訴える人もいればそうでもないという人もいます。そしてカンカンは「仕方ない」ではなく原因を知りたいし、社会を変えられるかもしれないと考えていますよね。
香山
カンカンは「せっかち」に描いています。自分にもそういうところがあるんですが、「はよ社会変われや」みたいな感じで癇癪(かんしゃく)を起こすタイプというか。ちょっと短絡的なところがあります。
「せっかち」と聞いて合点がいきました。叔父のマルさんはせっかちじゃないですね。
香山
悠長に構えてるというか。一方、魔法の学校に行って勉強を続ける子も、もっと遠回りの方法で社会を変えようとしているのかもしれませんよね。とにかくいろんな人が描ければいいなと思っています。
「人生の色をちょっとずつ変えていく旅」
カンカンは違う世界も見なくちゃっていうことで旅に出るけど、それがたった1つの正解ではないということですね。
香山
そうですね。たまたま旅に出たので、今持っている便利や自由を手放して、新しいものを目指して進んでいくという主人公を描いています。気に入らないのであれば別の自由に移っていけばいいし、気に入ってるなら今のままいればいいし。「旅をする」とか「逃げていく」ことは、今の状態が嫌な人がやっていく作業という意味でも表現しています。
日常とは違う場所へ行くことで、気持ちが楽になることもあります。旅とは何でしょうか。
香山
たとえばドラマで刑務所に入っていた人が出所して、自分のことを誰も知らない街に住んだりしますよね。そういう「大きなリセット」にもつながる感じで描いていますね。
棲家(すみか)も変えていく、旅行や観光じゃなく帰らない前提という旅だと、生き方自体を変えていくことになります。1回の人生の色を変えていくというか2回目の人生にちょっとずつ変えていく、生まれ直しを死なずにやるみたいな効果があると思います。
「逃げる」というとネガティブな感じですが、それでも意味がありますか?
香山
逃げるのは特に悪いことではないと思います。旅のように実際の移動を伴っていなくても、たとえば空想の世界や物語も心の逃げ先になっていて、それを作っている僕も助かったりしています。今回はそれが読者の人たちの旅先になったらいいなと思って、社会やお金のシステムから丸ごと全部、漫画に描いてます。
居場所発見ファンタジー『レタイトナイト』で描かれる旅の意味について伺った前編はここまで。後編では『ベルリンうわの空』でもテーマになっているセルフケア、漫画制作の背景についても伺います。お楽しみに。
- ※1:
- シルビオ・ゲゼルの「自然的経済秩序」に基づいた社会実験
[取材・文]樋口 かおる