「お金を儲けた人が勝ち組で、儲けてないと負け組」

今回は『だめ連の資本主義よりたのしく生きる』読書会的な雰囲気で集まっていただきました。あ、でも読書会って著者は参加しないものでしたっけ。

神長

参加するパターンもしない場合もどっちもありますよね。ちょうど今出版記念で全国ツアーをしていまして、それはトークライブがあったり読書会があったり。交流会もやって。

 

「だめ連」は32年前に神長さんとぺぺさんが立ち上げたんですよね。早速ですが、神長さんが「資本主義」に対して持っているイメージを教えてください。

神長

やっぱりお金ですよね、お金中心で回ってる感じ。働いてお金を得て、そのお金で物を買って生活するっていう。それで、お金をより儲けた人が勝ち組で、儲けてないと負け組とされてしまう。競争により人から人間性を奪っていく冷たいシステムという感じですかね。

生産性とか能力主義とかもよくいわれるじゃないですか。生産性が高くて能力があると「使えるやつ」ってことになって。「使える」っていうのは経済活動で活躍できるかどうかで、そういう物差しで人が計られるし、自分でもそういう価値観を内面化しちゃう。

最近は「資本主義から降りる」とか「ポスト資本主義」って言葉も流行ってきていて、資本主義的じゃないオルタナティブな生き方を始める人が増えてきている。資本主義的なものから急に全部降りるというのも難しいから、できるところから少しづつでも降りていけばいい。問題点としては、現実にはそんなこと全然ないのですが、「資本主義しかない」と思わされがちということもある。

 

横川

資本主義は今の社会にフィットしてるからですね。自分にスキルやポテンシャルがないと会社や世間に評価されないところには問題もありますが、その分得たものは個人に帰属します。「どういう暮らしをしたいか」は人によって違うので、その自由を認めるためにもお金はあった方がいいと思います。

横川さんはお金の専門家として投資や資産運用の知識を広める活動をされています。勝ち組・負け組意識ではないにしろ、「お金を稼ぐ」こと自体にはポジティブですよね?

九月

そんなざっくりと決めるのはまだ早いですよ(笑)。もっと聞いてみないとわからないですから。

横川

ポジティブかもしれません(笑)。

九月

そうなんですね(笑)。止めなきゃよかった。

DIY的な働き方が可能になった

九月さんは「京大院卒のピン芸人」とメディアに切り取られることがあります。「学歴は大企業への就職に役立つ」という通念があるからだと思いますが、資本主義との付き合いはどうですか?

九月

僕はお笑いのライブと書籍の出版とコラムなどの仕事で生活しているんですが、所属している事務所とか機関はないですし、あらかじめ持っているコネもツテも皆無で、完全にフリーランスの動きをしています。いうならば資本主義を含む、業界の大きな構造と関わっていない感じです。

神長

芸人の方は事務所に入ってることが多いんですか?

 

九月

そうですね。はじめたときから食えるようになるまでずっとフリーランスというのはかなり珍しいです。同じ活動形態の人、僕の前は近代以前の芸人とかだと思います。

神長

芸能界はプロダクションとテレビ局の関係が強くて、そのプロダクションが売り出したい芸人さんをテレビが使うとかいう話をよく聞きますよね。

 

九月

僕の場合、テレビ一強の時代じゃないからやれてるだけなんですよ。ネタ、ラジオ、文章など自分の身体からひり出るコンテンツだけでも、活動領域を作れるようになったといいますか。

ふつうは組織が分業する会場のブッキングやマネジメントを個人でやっているという。自分で畑を借りて耕して収穫も販売もするみたいな。

横川

DIYみたいな感じですね。

九月

そういうことが元々やりたかったんです。

お金と交換したものを、取り戻せる?

DIYのいいところってなんでしょう。

神長

たくさん働かないようにすれば、料理でもパンク修理でも自分でやる時間がある。もちろん面倒くさいときもあるけど、実はそういうところに楽しさがあると思うんです。

 

横川

プロに頼んだり外注したりすることには時間を買う意味もあります。好きなこと、やりたいことを実現するにはお金で時間を「買う」ことも有効で、私の働き方ではそちらを選択することが多いですね。もちろん自分でやることが楽しければいいんですけど。

神長

たとえば、野菜なんかもスーパーで買うばかりでなく自分たちで作ったりする。友人たちと雑草をむしって苗やタネを植えて畑をやってるんです。買うのでは得られない喜びが感じられますね。太陽の光を浴びながら土をいじってると小さな虫がいっぱいいて。自然界の循環のなかで生きているという基本を実感できます。でもつい最近まではそんな感じで暮らしてたと思うんですよね、人類って。

 

九月

そういえば、生活のなかで実体感を持てるように身体に立ち返ろう的なことは、神長さんの著書で共感したところです。

神長

それはどういう?

 

九月

資本主義においては、時間とお金、能力とお金と、いろんなものがお金に交換されて、自分が持つ物理的な身体や生命というものが見やすい形で情報になってしまうじゃないですか。そのとき踊るとか、何かを食うといった、情報に還元されにくい実践で何かを取り戻せるかもしれないという考え方に、強い共感を持ったんです。

神長

本来っていうか。基本に戻るみたいな感じ。そういうものを取り戻せる感覚がありますね。

 

九月

一方で、神長さんの実践ってオルタナティブともいわれるわけですよね。「基本に戻る」と「オルタナティブ」が重なるのが面白いなと思います。言葉としては本来逆なはずですから。

神長

今の文明化されすぎた資本主義社会のほうが、基本からずれちゃってるんじゃない?ということなんですよね。だから、よりどころを失ってわけがわからなくなってしまう。

 

だめでいい。人と比較しない

「資本主義の限界」と聞くことが増えたのはなぜでしょう。

九月

資本主義は拡大を前提とするシステムですから、何か領域を広げていかなきゃいけません。それは香辛料の発見だったり、野菜やお肉をたくさん作ることだったり、工場を作ることだったり、線路を引くことだったり。

でも拡大していくにつれ、地球の表面にあるもの、たとえば化石燃料だとか、生態系のシステムだとか、平野の広さだとか、人口の減少だとか、要するに僕らの物理的なボディに限界が現れますよね。そこで人間はインターネットなどに代表されるような、情報それ自体を空間のように見立てて領域を拡大してきたけれど、それもある種バブル的といいますか。いつかどこかで折り合いをつけなきゃいけない。脱成長なのか新しい成長なのか、成長とはかかわらない別の何かなのか、いずれにしろ舵はもうすぐ切らなきゃいけないというか。

それが個人の感覚にも影響して、お金を稼ぐ競争の苦しさになっている?

横川

資本主義は自由な競争で経済を発展させてきましたが、格差を広げる面もあるんですよね。質の高い商品が開発されるメリットもある一方、競争を刺激する仕組みでもある。SNSがそれをさらに加速させてしまっていますね。

たくさん稼いでる人が可視化される。たとえそれが嘘であっても「億稼いでます」みたいな情報に晒され続けることで劣等感を感じるような。自分なりの価値観を持って比較しないようにしようと思っても、実際には難しいと思います。

神長さんは勝ち組・負け組ではなく抜け組ですよね。そんな神長さんでも人と比較して「自分はだめだな」と思うことはありますか?

神長

ありますよ。「だめ」と名乗ることで開き直れているけど、気がつくと人と比較しちゃってることはありますね。劣等感みたいなものを抱かされることもあるし、そういうときは「だめ連だめ連だめ連」「比較しない比較しない比較しない」って言って楽になったりしています。

逆にだめ連で問題にしてたのは、競争で勝った優越感。出世してとか金持ちになってとか、人に勝つことによって自分のアイデンティティとか喜びを受けちゃうという問題。ちょっといい家に住むとかいい店でメシ食うとか、そういうのは無限にあるじゃない。

それは資本主義の罠で怖いですよね。本当につまんないことだなって。

 
だめ連の資本主義よりたのしく生きる』(神長恒一、ペペ長谷川著/現代書館)

神長さん、横川さん、九月さんによる読書会前編はここまで。後編ではより具体的に、交流って何?競争に消耗せず楽しく生きるには?を伺います。お楽しみに。

[取材・文]樋口 かおる [撮影]工藤 真衣子