人間が昔から行ってきた「贈与経済」

「資本主義的な競争に疲れて、贈与経済が気になっている」と聞くことがあります。贈与経済とはなんですか?

荒谷

人と人との関係性のなかで、お互いに何かを贈り合う経済活動のことです。基本的に贈与経済って、その関係に依存して生きるということなんですよね。その関係をつくるために贈与をする。資本主義が導入された後も、社会の中で並行的に私たちが行っている活動です。

 

贈与経済は人間がお金のやり取りをはじめる前からあって、そして現代にもあるということですよね。友だちの誕生日にプレゼントを贈ったり無償で社会活動ボランティアをしたり、見返りを求めず善意で行うものというイメージがありますが。

荒谷

必ずしも見返りがなく、善意のみから行うものではありません。接待をする側が「こちらの支払いは我が社が持ちます」と言うやり取りはよくありますが、それは良好な取引を続けたいという期待があるから贈与をするという関係性ですよね。

「給料」もわかりやすい例になると思います。昔の日本的経営では、従業員は給料分以上に働いて会社に対するコミットメント、忠誠心を持つことがすすめられていました。給料としてお金で換算されるよりも超過した部分もあり、その部分は従業員が贈与として会社に払っていることになります。それは単なる「ただ働き」かというとそうではなくて。「あいつがんばってるな」「何時間も残業して苦労してるから、ちゃんと取り立ててあげないとダメだよ」などと評価される雰囲気がありました。

だからその贈与は従業員側にとってまったくの無駄ではなく、むしろ贈与をして自分ががんばっていることをアピールしたくなる理由がしっかりあったのでした。終身雇用制や会社全体で評価できる評価軸があれば、むしろ他の人より進んで贈与しようとする贈与競争みたいなことが起こっていたわけですね。

 

資本主義経済はなぜ受け入れられた?

なるほど。仕事でお金を稼ぐ資本主義的な活動と別のところに贈与経済があるのではなく、並行的ですね。経済とは、お金をやり取りするだけのものではないのでしょうか。

荒谷

「富を分配する社会的な仕組み」が経済であるとして、お金を媒介としない経済ももちろんあります。贈与を媒介とした経済は、資本主義経済が広まる以前からあったものです。

 

贈与経済は元々あって、そこに資本主義が広まったと。なぜ、資本主義は広く受け入れられたのでしょう?

荒谷

おそらく都合がよかったんですよね。

 

資本主義が広まる前の状態に不都合があったということ?

荒谷

贈与経済には、贈与の負債感を利用して身分制のような関係を「フェア」とするような側面があったのですが、そこにお金を持った市民層が台頭してきました。そこに私的所有権をベースにしたボトムアップの「正しさ」が立ち上がった。つまり上に立つ人がすべて正しいのではなく、みんながフェアに競争していくなかに正しさがあるということ。ちょうど王政への不満が集まっていたところだったので、「まさにそれです」みたいな感じでみんなが飛びついたわけですね。

 

私的所有もフェアであることも、現代の私たちは当たり前と感じますが、昔はそうではなかったと。

荒谷

ジョン・ロック(*1)は社会契約論で「自分の体は自分のもので、自分の労働の結果得られたものは自分のもの」と説きました。その考え方は現在も引き継がれていますが、当時は非常に大きな変革でした。

それで個人が「自由」を獲得するようになり、その後、アダム・スミス(*2)が、みんなの「共感」でよい/悪いが決まるような仕組みを考えました。トップダウンではなく、みんなが自由にやっているなかのボトムアップで「これがいいね」が決まる。それが社会実装された形が資本主義なんです。

資本主義はすごくよくできたシステムなんですね。みんなそれぞれ価値観が異なっていて、それぞれに「いい」と思うものが違っていたとしても、最終的には「市場原理」が働いて結局は「たくさん売れるものがいい」と判定されることになります。競争で「よい/悪い」が決まるのだから、それがフェアでしょうというわけです。「近代化」といわれる社会変革は実際には、そうしたシステムの浸透によって実現したものだと思います。

 

贈与経済2.0で「お金を稼がなくても生きられる世界」に

アダム・スミスは「神の見えざる手」により、社会がしあわせになると考えたんですよね。自由であることもみんなの意見が尊重されることも大事だと感じますが、『諸国民の富』から250年ほど経った今、「資本主義の限界」がいわれています。

荒谷

資本主義経済は非常によくできたシステムではありますが、キリスト教の伝統の中から出てきた特定の思想をベースにした、特殊なやり方であることは間違いなく、誰でも同意できないような前提をはじめから持っていました。ある意味ではもともと結構な無理のある仕組みだったのですが、それがリーマン・ショック以後、明白になってきたという感じです。ひとつ例を挙げるならば、資本主義経済では、材料となるものについて権利はあまり考えられていなかったという問題があります。

 

材料?

荒谷

労働して何かをつくるときには材料が必要になりますよね。労働してできたものは自分のものがあるというロックの神話によると、材料は無限にあることが前提になっています。でも実際に人が材料をとってくる自然環境は有限ですよね。環境は有限なのに、環境負荷については誰も責任をとらない構造が最初からあったわけです。それで気候変動も起きているし、グローバルサウス(*3)への搾取もその文脈で考えることができます。

 

「新しい資本主義」のような改革もありますが、そのなかで、より成長し効率よい労働を求められています。荒谷先生の著書に『贈与経済2.0 お金を稼がなくても生きていける世界で暮らす』がありますが、資本主義の代替として贈与経済を選ぶということですか?

荒谷

単純に資本主義経済に問題があるから贈与経済に戻ればというわけにはいきません。資本主義経済で関係性が切れるようなものに疲れると、関係性を再評価したくなります。でも、贈与経済は慣習や関係性にしばられるので不自由な部分も多い。そこを改善しないと贈与経済は私たちがそこから逃げてきたような嫌な束縛をまた生み出すだけのものになってしまうと思います。

村社会的なところでボスの機嫌次第で贈与が評価されないようなことが頻繁に起こっていたのが、資本主義でちゃんと成果が評価されるような世界になりました。元々不自由だから逃げてきたはずなのに、そこに戻ってもまた苦しくなってしまいますよね。

 

そうですよね。自由は大事だし、贈与経済の面倒な狭い関係性に戻ることは避けたいです。

荒谷

そこで贈与経済自体をアップデートしないといけないのです。「贈与経済のグローバル化」と言っているのですが、ローカルにとどまっている贈与経済をテクノロジーで「贈与経済2.0」にアップデートし、グローバル経済として成立させることを提案しています。資本主義経済を完全に否定するものではなく、もう1つの柱とするということです。

贈与に基づく人間関係をローカルなものに閉じず、グローバル化できると、贈与経済ネットワークのなかで豊かに生きられるようにもなります。

 

グローバルに開いていくことで贈与経済が元々持っていた「お互い様」みたいな部分を伸ばし、デメリットの部分を改善していくということでしょうか。
今、多くの人の不安がお金に由来しているので改めてお聞きします。お金を稼がなくても、生きていけますか?

荒谷

はい、生きていけます。

贈与経済2.0のなかで生きる人たちがネットワークを増やしていけば、「贈与したい」人たちが増えます。贈与することに束縛とは違うかたちのインセンティブを設定するのです。みんなが贈与することにメリットを感じ贈与競争みたいなものが別なかたちで起こるわけですね。贈与経済2.0のプラットフォームが社会実装されれば、みんな機会があればいつでも、できる限りたくさん贈与をしたいと思っているような世界になるわけです。そうした環境の構築に向けて、ITエンジニアら専門家と協力して実証実験もはじめています。

 
贈与経済2.0 お金を稼がなくても生きていける世界で暮らす』(荒谷大輔著/翔泳社)。贈与経済2.0を実現するハートランド・プロジェクトには誰でも参加することができる(トヨタ財団助成事業)。

私たちが当たり前に続くと思っている資本主義、また、お金を稼がなくても生きられる世界を実現するという贈与経済2.0について荒谷さんに教えてもらった前編はここまで。後編では、贈与経済が息苦しくなりやすい仕組みと、それを2.0ではどう変えていくの?を伺います。お楽しみに。

※1:
17世紀のイギリスの思想家。王権神授説を否定した。
※2:
「経済学の父」と呼ばれる18世紀のイギリスの哲学者。1776年に『諸国民の富』を発表。
※3:
南半球に位置する新興国や発展途上国。気候変動の影響を受けやすいとされる。

[取材・文]樋口 かおる [撮影]工藤 真衣子