【前編】近内 悠太
「お金で買えないもの」「贈与」って何だろう
哲学研究者に聞く
2024.02.01
コンビニで買ったコーヒーを飲みながら、「あの人に仕事を手伝ってもらった。お礼をどうしよう?」と考える――。
日常生活では、このようなやりとりが頻繁に発生します。値段が決まっているコーヒーには対価を支払うことで取引が終了しますが、「何かをしてもらった」場合はそうはいきません。価値がはっきりしないのでどんなお返しをしたらいいのかもわからないし、してもらったこと自体、すぐに気づかないこともあります。
コーヒーでも犬の散歩代行でも、値段が決まっていると依頼する際の心の負担が少なく、シンプル。でも、お金にはかえられないできない「与える・与えられる」やりとりが大切だと考える人も多いでしょう。
『世界は贈与でできている――資本主義の「すきま」を埋める倫理学』の著者であり、哲学研究者の近内悠太さんに聞きました。喜びがあると同時に面倒な一面もある「贈与」とは、一体どんなものなのでしょうか。
( POINT! )
- 贈与にまつわる言説が増えている
- お金で買える/買えないは取り決め次第
- お金で買えないものとその移動が贈与
- 取引は完済できる
- giftの語源の言葉には毒の意味もある
- フリーライダーは共同体で処罰される
- 生きてる心地を得るために、贈与を見直す
近内 悠太
1985年神奈川県生まれ。 教育者。哲学研究者。慶應義塾大学理工学部数理科学科卒業、日本大学大学院文学研究科修士課程修了。 専門はウィトゲンシュタイン哲学。 リベラルアーツを主軸にした統合型学習塾「知窓学舎」講師。著書に『世界は贈与でできている――資本主義の「すきま」を埋める倫理学』(NewsPicksパブリッシング)。
「お金で買えないもの」はある?
「贈与」という言葉を見かけることが増えた気がします。
近内
贈与という言葉を使っていなくても、「無償で社会貢献をする」といった言説は多いですね。《取引ではない形で何かを差し出すことが企業にとっても重要》みたいな。あちこちで贈与の話をしているなと思います。
贈与は取引ではないので、お金で等価交換して完結とはいきませんよね。対象となるのは、お金で買えないものでしょうか?
近内
お金で買えないものがあり流通しているとするならば、売っていないものなので、誰かから与えられるという形でしか手に入らないはずです。そして、買えないものがあるのかないのかは、僕らの取り決めによるんですよ。
取り決め?
近内
臓器移植では、提供者をドナー(寄贈者)と呼びます。つまり、金銭で売ってはならないことにしているわけです。一方「お金で買えないものはない」状態を目指し、努力次第で手に入るとするのがいわゆる資本主義であり市場経済ですが、その取り決めは時代や社会構造によっても変わります。
介護や育児はかつて家庭ないし身内間で対処するものでしたが、今ではサービスという形でアウトソーシングすることができます。お金で買えるものがあるかないかは、僕らの取り決め次第。そしてお金で買えないものとその移動を、僕は「贈与」と呼んでいます。
「お金で買えない」ものがあるとして、その前段としてお金が必要といわれることがありますよね。命は大切だけれど、健康の維持にはコストがかかるとか。
近内
それは論点がずれていますよね。たとえばノーベル平和賞を授与するのに、2億円を用意すれば確実に手に入るということはないです。後から物語として「研究のために2億円が必要だった」と言うことは可能ですが、2億円とノーベル平和賞が直接紐づいているわけではありません。
取引でも、払いきれない余剰分は「贈与」
贈与と取引はちがうものですが、その中間的なものはあるのかなどよくわかりません。
近内
それは贈与にまつわる大問題なんです。
そうなんですか。先日友人が家にやってきて、伸び放題の雑草を刈ってくれたんです。お礼にお菓子を渡したものの、草刈労働とお菓子の釣り合いがとれていないことがずっと気にかかっていて。私は贈与を受け取ったんでしょうか?
近内
気になって困ったんだから、贈与でしょうね。だって「コンビニでタバコの43番ください」と言って売ってもらって、「悪いんでお礼にこれもらっといてください」ってなりませんよね。数日後に「あの店員さんに面倒をかけたな」って思い返すこともないでしょう。
注文したタバコを受け取ったけれど、対価を払って完済したのでチャラになったんです。完債が可能なのが交換で、払いきれてないものがあるなら、その余剰分は贈与ですよね。
もし、その店員さんが「本当はこの銘柄は仕入れないんだけど、あのよく来るお客さんのために少し手間だけど仕入れておこう」ということがあったとしたら。
近内
その部分は贈与だと思います。
コンビニでもメルカリでも、商品の代わりに対価を支払えば完了するので、相手が誰であってもどんな会社であっても基本的にはかまわないわけですよね。それが交換です。贈与の場合は代金との交換で回収しきれない、受け取り側がどうすれば払ったことになるのかわからない部分がある。そういう不合理な領域があると、困ってしまう。
だからみなさん贈与はいいものだと思っているかもしれませんが、良くも悪くもあるんです。
「贈与」に含まれる「毒」
良くも悪くも?
近内
贈与、贈り物は英語でgiftですが、その語源となる言語では「毒」という意味も持っているんです。
たしかに、贈り物を受け取ることには負担もありますよね。負い目が生まれるし、負い目を忘れないように持ち続けなくてはいけない。対応に失敗して恨まれる不安もあります。
近内
もらったことで、呪いにかかることもありますよね。
はい。引越しを友人に頼んだら疲れていないかなと気をつかうけど、業者に頼んでお金と労働を交換すれば「この梱包もお願い」と好き勝手に頼めます。
近内
料金を追加するから急いでくれといったことも頼みやすくて、気が楽ですよね。だから、今世間でなぜ「贈与が世界をすべて救う解決法」みたいにいわれるのか僕にはわからない。危ういと思うんです。
そんな簡単に世界を救ってくれるようなものはないし、「用法用量を守ってご使用ください」というのが贈与です。あるいは、交換が適している領域と贈与が相応しい領域をきちんと把握したほうがいいとは思っています。交換だけ、贈与だけ、というのはバランスが悪い。
なぜ贈与は、毒の面を持ってしまうのでしょう?
近内
僕らの脳には刻まれた風習があります。誰かにしてもらったらお返しをしなければならない。贈り物をもらって返さず平然としていると、共同体では処罰されるんです。いわゆるフリーライダーですね。
フリーライダーはいつの時代でも問題になっています。フリーライダーには悪い噂がたち、嘲笑の対象になります。そうして社会的に動けなくなり、共同体から排除されます。
もらうだけでお返しをせず、何とも思わないような心を持った人たちは基本的に自然選択(あるいは処罰という社会選択)によってその数を減らしていったので、「もらったからお返しをしなきゃ」と自然に思える心を備えた人たちが増えていった。それで僕らは、何かをもらうと「申し訳ないな」と負い目を感じるような生き物になったんですね。
贈与では解決しない。贈与について考え直す
なるほど。でも負い目を持つのは面倒だから、私たちはいろんなものを等価交換できるようにして、自由で楽な時間を得てきました。「贈与を見直そう」という流れがあるのは、ちょっと昔に戻ろうということ?
近内
戻ることはできないんじゃないですかね。50年前と今では社会制度もテクノロジーも全く違います。
資源に限界があり、人口減少もあるなかでかつて設計した制度では対応できなくなってきたのが現代です。トップダウンできれいなシステムを組むことはできないので、ボトムアップでどうにかしなくてはならない。そこで振り返ってみると今のような社会や国家がないときにも、僕らは与え与えられて生きてきたし、それはどうやら贈与というものに集約されてるらしい。それが、今贈与が注目されている理由の1つだと思います。
ただ、僕が贈与について考えている立場は少しちがうところにあります。
どういうことでしょう。
近内
数万年前のホモ・サピエンスの環境に比べると、現代は例外的に豊かですよね。いろんなものが売買可能になって、コンビニに行けば高カロリーな食糧が溢れています。1日中食べ物を探さなくてもいいし、洗濯機などの道具で時短も可能に。でも、たった1個だけ手に入らなかったものがあって、それが生きてる実感とか生きてる心地というもの。
だから、便利になって楽しくなると思ったのに楽しくない。そして生きてる心地みたいなものはどこからやってくるのかというと、愉快な仲間とともにいる時間みたいなものにあるのではないかと。
昔のように、家族で過ごせばその時間が得られるというわけでもないですよね。
近内
むしろヤングケアラーや毒親、DVなど家族に関係する社会問題は増えています。そもそも家族がどうやって結ばれていたのかを考えると、一方的に誰かから扶養してもらう、与えられるといった贈与があります。愛もそうですが、本来あたたかいはずのものが悪しき贈与、呪いになりやすくなっている。
だから生きてる心地を得て、生の全体性を回復するためには贈与を見直す必要がある。贈与で解決するのではなく、贈与についてもう1回ちゃんと考えるということです。
恋愛のパートナーや家族という小さな共同体から大きな共同体まで、私とあなたがつながるさまざまな場面における機能不全は何に由来するのか。そこには贈与の問題があるだろうと思っています。
前編では、贈与がどんなものかを伺いました。贈与は万能薬ではなく、呪いになることも。それでももっと知りたい贈与について、後編ではより深堀りしていきます。お楽しみに。
[取材・文]樋口 かおる [撮影]工藤 真衣子