「受け取ってしまった」からはじまる贈与のつながり

職場でも家庭でも「贈与を受けた者は返さなくてはいけない」とすると苦しくなる気がします。

近内

主語を「私」にするしかないですね。「あなたが」は駄目。僕の贈与論では、「あなたはこれだけのものを受け取ったんだから返しなさい」って、2人称で言ってはならないんです。1人称複数の「我々」も駄目です。それも道徳の暴力性なので。「私たちはこれだけ受け取ったんだからお返ししなきゃね」というとき、「私たち」は一枚岩じゃないはずなんですよ。

「自分はそんなふうに思えない」という人がいても、「仲間だから」と合わせなくてはいけないとしたら、それは暴力じゃないですか。呪いにかかってしまう。

 

「私は世話を受けたのだから、イヤだけどお返しをしないと」ならどうですか。親に育ててもらった恩はあるけれど、依存や束縛があるとか。

近内

「受け取ったとは思えない」「むしろネガティブなものを与えられた」というのであれば仕返しをするなり、その共同体から飛び出すなりすればいいんじゃないですか。

 

「自分は与えたい。でも、何も見返りがなく損をしたらバカみたい」と不安になることもありますが。

近内

それは与える側ですよね。僕の定義では、贈与とは受け取り手によって規定されるものであり、「与えたい」「与える」というのは贈与という言葉にそぐわないと考えています。「与えた」と思っても相手がそう感じていないこともありますし。「与える」側であるならば、僕は「ケアする」とか「利他的な行動」という形で捉えるべきだと考えています。

 

与える側から贈与をスタートすると、「あげたのに」みたいな呪いになりかねませんね。

近内

「受け取ってしまった。そのときには気付けなかったからもうお返しができない、どうしようか」と受け取り側が感じることで、自分がケアをされたことをどこに向けるべきかと考える。それがうまく生きられていない人や傷ついた人のケアや、その人たちが大切にしているものをともに大切にするというモチベーションになると思うんです。

 

「アンパンマン」「フリーレン」が受け取ったもの

「贈与する」側の目線で考えていました。

近内

例をあげると、『アンパンマン』がわかりやすいと思います。自己犠牲ととることもできますが、アンパンマンをサポートするメンバーもいるじゃないですか。アンパンマンだけが自己犠牲の象徴の悲しい物語かというと、そうではないですよね。

顔も受け取っているし、住民たちから「アンパンマン!」って喜んでもらえたり大切な人だと思ってもらえたりもします。ちゃんと返ってきてますよね。

 

物語といえば、『葬送のフリーレン』も受け取った話ですよね。

近内

エルフが旅をする、過去に受けとったものあるいは呪いと向き合うというのはわりと王道ですが、ヒンメルが渡していたであろう想いをフリーレンがたどるという時間軸が不思議な物語ですね。フリーレンからしたら取るに足らない時間でも、人間のヒンメルたちからすると人生の大部分だったみたいな。エルフと人間で時間軸がずれていることで、贈与が可視化されています。

 

その場で取引が完了する交換ではなく、「以前受けとっていたことに今気づいた。だから返したい相手が目の前にいない」といったことがある贈与の特徴が伝わるということですか?

近内

そうですね。一緒に旅をしてたとき、多分ヒンメルはエルフであるフリーレンの時間感覚をある程度理解していて、フリーレンのほうは彼らの時間感覚を理解していなかった。その負い目があるからか、第1話はあのときあの人のことを何も知らなかったという後悔から始まります。そのずれを補正していこうとする償いの物語であると同時に、救済の物語でもあるのだと思います。

 

受け取ったものに気づくには

フリーレンのように受けとったことに気づくまで時間がかかったり、ずっと気づかないままだったりすることもあります。自分が受け取ったものに気づくには、どんな感性が必要でしょうか。

近内

想像力ですね。1万年前のことを考えたら、あれ?今ものすごく多くのものを与えられてない?ってなりますよね。現代においても、過酷な家庭環境があることを知っていれば、愛されるとかご飯と温かい布団が用意されてるのは偶然なんだなという感覚が持てる。そういうことがあると、何かを受け取るということが上手くなるんじゃないですか。

 

勉強みたいなことも必要ですか?

近内

現代の僕らがどういうところに位置づけられてるかの理解はあったほうがいいですよね。人権ひとつとっても自然発生的にできたわけではなく、人類史のある場面において登場したものです。

『すばらしい新世界』というSF小説では、生殖というものが管理された社会が描かれています。そういう作品に触れてざわざわしたものを感じたら、そもそも人権とはなんだろう、誰かを愛するとはどういうことだろうと改めて考えることができます。

 

物語からも学べますね。

近内

シミュレーションだからですね。自分1人の人生しか生きられなくて、自分の人生で起こったことしか学べなかったら、犬や猫と同じ「学習」しかできないですよね。

経験からしか学べないのが「学習」で、誰かの失敗を教訓に、同じ轍を踏まないようにするのが「勉強」だと思っています。人類は多くの失敗を経てここまできたし、あなたが同じ失敗を繰り返さないためにさまざまな実験や歴史があります。そういう恩恵は受けておかないと、地球を何回も破滅させかねない。それだけのテクノロジーを人類は持っているんです。だから勉強や外部のリソースを利用して、自分の頭だけで完結させないことが大事です。

そしてそれも贈与です。先人の誰かが話した知見を書物などでインプットすることで、実際に実験する必要がなくなります。勉強は贈与されたレッスンなんです。

 

愉快な仲間が集まる場所には贈与・利他・ケアがある

贈与について知ることで自分が受け取ったものに気づける可能性が上がり、贈与が呪いになってしまったときにも解放されやすくなる気がします。

近内

呪いが呪いであるとばれたら、呪いの効果は薄まりますね。

贈与について知っていくと、なんであの人が嫌で、この人のことが好きなのかの理由がわかる。メタ認知ができるんですね。逆に言うとそれだけなんですけど、こういう人間関係が始まりそうなったら逃げるとか、こういう人がいたらそばにいるべきだとか、いるべき場所といるべきじゃない場所に対する嗅覚が上がると思います。

 

しあわせにつながりそうだと感じます。

近内

そうですね。生きてる心地を得られる「愉快な仲間が集まる場所」について考えると、結局そういう場所は贈与・利他・ケアが回ってる場所だと思うんです。「愉快な仲間」は僕の今後のテーマでもありますが、家族とか恋人という関係性も広くいえば愉快な仲間です。

 

「愉快な仲間」ということは、愉快じゃなかったら抜けていいんですよね。

近内

家族とか血縁関係ではなく愉快かどうかが基準なので、選ぶことができます。ともに生きる愉快な仲間の集め方を、僕らはここ2〜30年ぐらいトレーニングしそこなってきました。愉快な仲間とつながる、あるいは相手にとって愉快な仲間に自分もちゃんとなれてるかどうか知るためのお作法が必要です。

相手にとってというところに、おそらく贈与・利他・ケア・受け取る与えるみたいな話があるんじゃないかなと思っています。

 

[取材・文]樋口 かおる [撮影]工藤 真衣子