【前編】九月
SNSの匿名相談はなぜバズる?
「九月の『読む』ラジオ」から考える
2023.11.02
「仕事のやり方はこれでいいのかな」「ちょっと嫌なことがあったんだけど」
私たちはいつも、ちょっとした相談ごとや人に言いたい何かを抱えています。かつては身の回りの人と共有するだけだったあれこれの多くを、今はSNSに投稿したり匿名通話サービスで知らない誰かに話したり。
九月さんはXのアカウント「九月の『読む』ラジオ」で、匿名の相談を受け付け、おすすめのコントを添えてお返事。ていねいな回答は人気を呼び、バズることもしばしば。以前は「バズっても何にもならない」と考えていた九月さんですが、たくさん届く相談に目を通すなか、変わってきた感覚があるのだそう。
私たちはなぜ、SNSで匿名相談をしたり、他人への回答を気にしたりするのでしょうか。初の著書『走る道化、浮かぶ日常』が発売された、ピン芸人の九月さんと考えます。
( POINT! )
- 計算をせず、やりながら修正する
- 相談にちゃんと答えるようにしたらバズりだした
- 1回バズっても影響力は小さいけれど、チリツモで変わる
- 2万いいねに共感できないと、人は疎外感を持つ
- ネットに自我を放流してはいけない
- 個別の悩みは一般化してみる
- 相談に答えることの超えてはいけないラインを守る
九月
ピン芸人。1992 年生まれ。青森県八戸市出身。京都大学教育学部卒業、同大学院教育学研究科修士課程修了。事務所無所属。Xのアカウント「九月の『読む』ラジオ」では質問箱を通じて届いたお便りにおすすめコントを添えて回答している。著書に『走る道化、浮かぶ日常』(祥伝社)。
「九月の『読む』ラジオ」の形は、やりながら修正して生まれた
SNSでは匿名で相談できるインフルエンサーの投稿がよくバズっています。あえてイラッとさせているのかなと思うこともありますが。
九月
そういう人もたまに見かけますよね。「煽るとバズる、バズるために煽る」みたいなテクニックもあるんだと思います。自分の主張をすることよりも、二項対立をけしかける方が目的になっているようなものとか。実名の誰かを持ち出して、強制的に泥沼にすることが目的であろうものとか。
そこはやめておこうって気をつけているところです。やっぱり、ネットのために身体から離れたらいけないなと思っています。自分の場合は肉体のあるライブ活動が基盤にあるので、そこからは絶対に離れないようにしようって思いながら。身体の実感を伴って、面と向かって言えることだけ言おう、みたいな感覚があります。
「九月の『読む』ラジオ(以下『読む』ラジオ)」では、匿名の相談の答えにおすすめのコント動画を添えていますよね。これはどういう経緯で始まったんですか?
九月
2020年頃ですね。当時、芸人の自主制作のラジオが流行りだしたんです。金属バットさんとか真空ジェシカさんとか、YouTubeから自主制作のラジオを発信して伸びていく人が出てきた時期で。
すると、そういうラジオはもうあまりやれないかな、と思ったんです。だからTwitter(現在のX)をラジオということにしたらいいんじゃないかと思って、仮に「『読む』ラジオ」と名付けたんです。
ただ、質問に答え続けるのも疲れちゃうわけで、パッケージが欲しくなったんです。それで1年くらい前から「回答にコントを添える」形にしました。そしたら続ける際のハードルが低くなって、スイスイやれるようになりました。お便りを読んで曲紹介をするみたいなイメージですね。
YouTubeの告知のために『読む』ラジオが生まれたのではなくて、逆なんですね。
九月
たまたま一石二鳥になっていったという。僕は事前に計算するのが苦手で、やりながら修正することしかできないんです。
「100回バズれば本になる」
以前から、相談ではない九月さんのアカウントでもよくバズっていますよね。
《地方の田舎あるあるで「サイゼがない」「ガストがない」みたいなのをよく聞く。実際、僕も地方出身なので、そういうのを言ったこともある
ただ実際のところ、都会に出て一番驚いたのはむしろ個人商店の多さだった(原文ママ)》
とか。ふつうっぽいというか、賛否両論みたいなところを狙わなくてもバズるのはなぜだと思います?
九月
僕のバズったポストは、大体どれも世間話としてちょうどいいくらいの内容なんです。読みやすくてリズムのいい文章を書くことをいつも意識していて、それがみんなにとっての「あるある」めいたところにぶつかったときに伸びてるのかなと思っています。
「バズっても何にもならない」とnoteに書いてましたけど、変わりましたか?
九月
少し状況が変わりました。バズ1回ごとの影響が小刻みなだけで、小さな世間話でも、5回バズればWebの取材が1個は来るし、10回バズれば地元の新聞も来るし、100回バズれば本になるみたいな、チリツモ的なことはあるのかなと思っています。SNSでの世間話投稿から知って頂けることも本当に多いですからね。
チリツモどころか、1回でもバズるのがむずかしいです。
九月
でも、『読む』ラジオがバズるようになったのってごく最近なんですよ。少し前まではフォロワー2000人くらいで、ごくファン向けのコンテンツだったんです。
あるとき、一つ一つの相談を流していくんじゃなく、一生懸命答えてみようと思い、やってみたんです。そしたら、ちゃんと答えたらたまに伸びるということを発見して。
思いもよらないものがバズった、炎上したと聞くことが多いので、「ちゃんと答えたら伸びた」って新鮮に感じます。ネットに毒されているのかも。
九月
といっても、やけっぱちではあるんですよ。
友達や後輩の本気の相談だと思って答えてみた
やけっぱち?
九月
芸人だからある程度ボケたいに決まってるじゃないですか。重たい悩み相談が来てもボケながら答えるとか、自分に引き付けてエピソードトークにしちゃうとか、いくらでも手口はあるんですよ。
だけど、本気で友達に相談されたとか後輩に相談されたと思って答えてみようっていう。お笑い要素は最後にコントを紹介すれば十分だから、内容は真剣に書いてみようって方向に振り切ってみた感じです。
だからでしょうか。匿名のサービスやコメント欄はよく荒れるのに、『読む』ラジオに来る相談に「荒らし」は少ないと聞いて不思議でした。
九月
ファン層とか、コンテンツの色の影響だと思いますよ。僕の作るネタや文章は、「そんなことをしてまで勝ちたくない」とか「ここまでやったらダサい」とか、何かしら自分の中の線引きと葛藤しているものが多いんです。
だから、そもそも「荒らそう!」というメンタリティの人は近付いて来にくいというか。こういう言い方したらあれなんですけど、安易に敵だ味方だって切り貼りしたがる人は、僕に対してあんま感想を持たないと思うんですよ。何やってるかもピンと来ないというか。
「悪口を言いたい気持ちもあるけど、言うのってダサイよな。やめとこう。でも言いたい気持ちもある。自分って駄目だな」ぐらいの人がメインターゲットなのかなって思ってます。
完全に潔白ではなく、自分の悪しき心と戦ってるような人。そういう人の味方になれたらなと思って活動しているので、本当に「気に食わねえから迷惑なコメントを送りつけよう」と思うような人は、そもそも僕に興味を持たないと思います。説教臭く見えちゃうんじゃないかな。
バズったときはどうでしょう。
九月
バズると、どうしてもケンカしたいだけの人がやって来ることはあります。でも、それこそ勝っても仕方ないので。ケンカしに来る人には基本的に下手に出て謝ります。謝って、仲良くなって、餃子食べに行ったことありますよ。
餃子!?
九月
バズったときに喧嘩腰のリプライをする人たちって、たとえばそこに「2万いいね」が付いてたら「これが世間の声なんだ。これに2万いいねが付く世界なんだ。でも自分はこれにいいねができない」という疎外感を持って、世間に対しての反発をぶつけにきてる感じもあるんですよ。
その反発は僕に向けられた声じゃなくて、それを良しとする世間への反発とか、自分はなぜこれを良しとできないんだろう、共感できなかったっていう疎外感みたいなものなんだと思います。
こと僕の場合は投稿内容もほとんど世間話なので、固辞したくなるほどの内容はないんです。だから「ごめん! これが正しいとは別に思ってない。君もいろいろあるよな、餃子食おうぜ」って言ったら、たまに餃子が食べられます。
「ネットに自我を放流してはいけない」
回答がバズるとそれに疎外感を感じる人も。それだけSNSの相談は注目されやすいということでしょうか。
九月
僕はそれを良いことだとは思ってなくて。
なぜでしょう。
九月
『読む』ラジオをやっていると、相談で「ラジオさん」と呼ばれることがあるんです。でも、僕が「九月」という名前のピン芸人であることは少しでも調べたらわかるはず。すると、「ラジオさん」という人は、何も調べずに誰だかわからない相手に相談しているんです。しかもそういう相談にかぎって内容も重たい。
藁をもつかむ思いなんでしょうし、それは仕方ありません。悪いのはそいつじゃなくて世の中なんでしょう。だけど僕はフォーマルな機関ではないし、そんなに信用しないでほしいんです。バズってるのをパッと見て、この人の言葉はやさしいとか正しいとか思って、名前も素性も調べないで、大事なことを相談するのは危険です。ネットに自我を放流してはいけません。
アカウントが大きくなると、個人的なことを預けてもいいと考える人が出てきますよね。
九月
詩人になりたい若者が谷川俊太郎さんに相談するなら、自我を全部預けてもいいと思うんです。でも、僕は「九月」なわけです。相談相手も、別に九月みたいになりたい人ではないわけで。
「今離婚しようか迷ってて」とか「自分は大学進学するべきなのか就職するべきなのか」とか、僕にはとても決められないことだし、そこまでは力になってあげられない。そして僕が踏み越えていい領域でもない。だから僕は、相談に回答するときに一般化するところからはじめるようにしています。
一般化するとは。
九月
たとえば恋人の悩みであったとしても、「友達でも家族でも起こることだよね」と話題の範囲を1段上げて、あまり狭い話にしないようにしています。
でないと、個別の人生の重みなんて僕には背負えないですから。TwitterがXに変わって字数制限が広がったといっても、1つのお便りに返せる文字数は長くて3〜4000字です。それでは人の人生は背負えない。
だから全部一般化しなきゃいけないと思っているし、コントも添えるんです。コントを添えることで、「結局は芸人の単なるネタ紹介でしたね、このコント面白いでしょ。見てね」で終われる。そんなふうにエクスキューズをし続けなきゃいけないと思っています。
なにせ、僕は常に正しいことを言える人間じゃないし、やさしさの国家資格持ってるわけじゃないですから。一介の芸人であるラインを絶対に守るっていう。そういう超えちゃいけないラインの感じは、とても気にしているところです。
「九月の『読む』ラジオ」について聞いた前編はここまで。後編では、「寂しさ」や「頭の良さ」など、SNSに漂うモヤモヤした言葉たちについて九月さんに伺っていきます。お楽しみに。
[取材・文]樋口 かおる [撮影]武藤 奈緒美