九月の『読む』ラジオにはラジオネームがない

前編では「九月の『読む』ラジオ(以下『読む』ラジオ)」の成り立ちを伺いました。「質問箱」(匿名で質問できるサービス)を使うことにはどんな意味がありますか?

九月

『読む』ラジオには、ラジオネームがないんです。それは凄く重要で、匿名性が保たれ続けるんです。ある日に恋愛相談をした人が、次は時事についてのおたよりを書いて、今度はふざけたような下ネタを言う。名前が残らないぶん、そういうことができるんです。

また、名乗らないことで常連さんと一見さんの区別もなくなります。通行人から恩師までみんな横並びですから。それもコンテンツとして開かれた感じがあっていいですよね。匿名なら恩師だって下ネタ言えますからね。

 

キャラを意識せず、前回と矛盾した相談も送れますね。今、相談に限らず匿名で話したい、つながりたい人がとても多いです。背景には「寂しさ」があるのかと思いますが。

九月

どうなんでしょう。「寂しさ」と「繋がり」ってのもまた別の問題かなと思います。それこそ『読む』ラジオに関して言えば、僕とのつながりを求めている人はいないんですよね。

 

いるのでは?

九月

いや、いないと思いますよ。なんせラジオネームがありませんから。完全な匿名ゆえに、僕から見たら誰がどれか、全く区別できないですからね。そこでは個人としての関わりはある程度無効化されていて、ただおたよりだけがあるんです。

そう考えると、質問相談って、厳密にはファンとのコミュニケーションではないんでしょう。

何が近いんだろう。ノックですね。ノック。大量にボールが飛んでくるから、守備範囲に来たものをしかるべき方へと投げ返していくっていう、「レスポンス千本ノック」的なものなんです。あくまでもおたよりにお返事するさまを見せる、というコンテンツなんです。

 

寂しさは消そうとすると増える

九月

そういえば、「寂しさ」という話が出ていましたよね。僕たちが今感じている寂しさって、何もネット社会以降に新しく生まれた寂しさではないと思うんです。今までもずっとそこにあった寂しさを、今たまたま発見しただけというか。

電子機器の普及によって、僕たちは誰かと誰かが仲良くしているところをよく見かけるようになりました。すると、自分が人と関わっていないのはおかしいんじゃないか、自分だけが孤独なんじゃないか、と思う機会も増えちゃいますよね。別にもともと、誰にでも一人の時間はあっただろうに。

そもそも、生きることって基本的に寂しい営みなんだと思います。自分の体は自分だけのものだし、誰に看取られようが死ぬとき意識は1人でなくさなきゃいけない。自分の名義で生きてるのは自分だけだし、自分の怪我で痛むのも自分だけだし、人にはどこまでも他者と切り離された、「個」として生きている部分がありますよね。それはもうしょうがないくらい寂しい。

そしてこの、しょうがないくらい寂しい寂しさって、消そうとしても消えないものじゃないですか。根本的に、生きることに埋め込まれている。だから、消さなくてもいいんだろうなって思います。寂しさって、借金じゃなくて元本なので。

 

寂しさをどうにかしたいなら?

九月

どうにかしようとするよりも、人が生きることのベースは寂しさなんだ、みんなそれぞれの場所で生まれて、どうしようもなく湧いてくるそれぞれの寂しさの中で、しょうがなく寂しく生きているんだと割り切ることのほうが、僕は解決に近いと思います。

生きることは、笑っちゃうくらい寂しい。だけど、その寂しさの中で、誰かと笑い合えることも、わかり合えることも、救い合えることもある。もしかしたら、それらは気のせいかもしれない。二日経ったらまた寂しくなっちゃうのかもしれない。でも、そういう楽観的な感覚に騙されながら、あるいは信じながら生きていくのが、寂しさへの最大の抵抗なのかなって僕は思います。

 

論理も感情も物事を組み立てるレシピの1つ

著書『走る道化、浮かぶ日常』に「人と関わりたい気持ちが根底にある」とありましたね。

九月

他者に対しては、いつも強い好奇心と、強い畏怖を感じています。一人一人の他者が、今まさに命の重みをもって生を営んでいることって、怖いくらい凄いことだと思います。

他者がそういう仕組みで存在していることって、とても当たり前のことなんでしょうけどね。僕はずっと驚いていたい、これっぽっちも慣れたくないんです。だって、他者がなんだか面白そうで、重みもある存在に見えるからこそ、つながったり認め合ったりすることに価値を感じられるわけでしょう。そうでないならば、褒められても愛されてもちっとも嬉しくないわけで。ビビリながら惹かれていたいです。

 

好奇心が原動力ということですが、論理的でもありますよね。SNSではよく「論理的vs.感情的」が話題になって「論理的でないものは駄目」と言われがちです。九月さんには両方ある?

九月

どうなんでしょう。論理的であることって、内容の整合性を保証するだけのものですよね。そもそも「論理」自体が、良い・悪いを判断するための装置ではないですし。だから、「論理的なものが良い」「論理的じゃないと駄目」って言明は、それ自体が論理では説明できないことをしちゃってる、一種の破綻をきたしていると思います。

結局は、論理も感情も物事を組み立てるレシピの1つですよね。例えば沖縄旅行をするとして、論理的に組み立てたプランと感性で組み立てたプランが、ほとんど同じになることもあるでしょう。結局みんな、ソーキそばを食い、美ら海に行く、みたいな。

すると、論理も感情もたどり着く回路の違いでしかないのかなと思います。どちらも一つの方法、一つの言語でしかないというか。仮に僕が論理的だと思われるとしたら、「論理的と呼ばれるような一定の手続きを使える」ということなのかなと思います。

 

手続きというのは、言葉の組み立てとか?

九月

そうですね。情報の順番とか、因果関係のわかりやすい配列とか、客観的な事実と自分の解釈の区別であるとか。総じて、他者に何かを伝える際のマナーの話というか。

僕は元々、他人に伝わる言葉で喋れなかったんです。特に中高生の頃とかはコミュニケーションにめっちゃ困ってました。どうしても、たまに何言ってるかわからない人になっちゃうんですよ。

 

言葉や数値に振り回されないための「余剰」

コミュニケーションができなかったとは、「今日どこかに行こう」みたいな会話もできなかったということ?

九月

日常会話とか世間話ならできたんですけど、一番伝えたい本当のときめきを、人にわかるように言えなかったんです。ときめきが先行すると、どうしても「にんじん性が土なら、土とはにんじん性なのか?」みたいな言葉になってしまって。

本当は、「にんじんは、畑から取れたばかりの、土をまとった姿が一番にんじんらしい。したがって、にんじんのにんじんらしさは、にんじんそれ自体ではなく土にある。土の土らしさもまた、にんじんありきだったりするのか?」と言いたかったんです。僕は、にんじんを見て心が震えたことを人に伝えるために、論理的な方法を身に着けなければならなかったんです。

転機になったのは大学受験でした。筆記試験では、採点者に伝わる言葉で内容のある答案を書かなければいけないわけで、「自分がわかっていることを、そのまま点数に変換する練習」をしたんです。それは論理的であるための、多くの他者と関わるための訓練だったんだと思います。

 

そういうことを意識しながら勉強していった。

九月

そうですね。自分のことを助けてあげたかったので。

 

そして京大から大学院に進学。「頭が良くなる」ためのコンテンツをSNSで見かけることもありますが、九月さんは「頭が良い」ってどんなことだと思いますか?

九月

どうでしょうね。まず、「良い」という言葉を使うべきでしょうか。「良い」という言葉を使うときって、何かしら目的にかなう要素があるわけですよね。

例えば、誰かが「このめんつゆは良いね」と言ったとしましょう。その「良い」っていうのは、具体的に言い換えると「料理をするうえで、何にでも合う」「安くて量が多いから、大人数で消費するのにちょうどいい」「地元の会社が作っていて馴染みがあるから、地産地消に貢献できる」など、何かしら具体的な目的にかなうことを意味するわけじゃないですか。

すると、「頭が良い」という言葉を使うときにも、やっぱり目的が隠れているはずなんです。「仕事を進めるうえで役に立つ」「物事を考察するときの視点が多い」「自分に自信を持てる」とか。

そういう隠れた目的を伏せたまま「頭が良い」って言葉だけを振り回しても、あんまり意味がないなって思います。もう少し具体的な言葉に置き換えるべきものなんじゃないかしら。「ただ漠然と頭が良い人」って、存在しなくないですか?

 

でも「頭が良く」なりたいんです。記憶力も足りないし。

九月

とても共感できます。僕にもそう思う時があります。でも、だからこそ怖いんです。「漠然と頭が良くなりたい」って、結局のところ虚構、虚妄なわけですよ。内容がない。だからこそ、そう願う人の願いはどうしたって叶わない。

するとそこに漬け込みたい邪鬼ども悪鬼どもが、うじゃうじゃ湧いてくるわけです。漠然と教養人たりたい、漠然と知的たりたい、そういう叶うことのない漠然とした欲求を刺激して、高価な何かを売りつけていく。

だから、憧れることをやめましょう。自分が目指すものは何なのか、もっと落とした言葉で考えていきましょう。それこそ「記憶力」でもいいわけですし。

 

落とした言葉とは、これができるようになりたいとか。

九月

そうですね。逆に「自分は頭が悪い」という言葉も使わないほうがいいですよね。全部が全部、あらゆる目的に照らして悪いわけないんですから。

 

言葉に振り回されないために、「自分で考える」にはどうしたらいいですか?

九月

難しいです。自分で考えるにはどうしたらいいかって、他人が答えていい問いじゃなさそうというか。

ただ前提としてそうですね、「自分の頭で考えろ」という言葉は、世の中ではあまりいい使われ方をしてないことも多い印象です。そういう言葉が使われるシチュエーションって、「自分で考えたふうな感じを醸し出しつつ、求められている正解を出せ」というケースが多いというか。字面ほど自由じゃないことが多いように思います。

直接の答えではないのですけど、そうですね、自分じゃなきゃ見つけられない価値を大事にしたいなとは思っています。それは例えば、余剰とか不要なもの、論理的に整合性がないもの、自分の感情にも矛盾するもの、損するものだったりします。

そういった、傍から見たらとても価値のないものをゆとり、遊び、色気として取り込むことって、とても豊かだと思うんです。それは他者にはなしえない選択ですよね。個性であり、意志であり、思想であり、立場でもある。そういうものを大事にしたいです。

 

本来ゆるくあるはずのSNS投稿も数値化されるようになって、余剰みたいなものはますます持ちづらくなっているのかも。

九月

どうなんでしょう。数値で表せる価値なんて、所詮数字で表せる程度のものでしかないようにも思います。要らないものから、順番にわかりやすくなっているだけというか。本当に大事なものはまだまだここに残っているぞ、という感覚があります。

もちろん数値や結果が必要なこともありますが、追い込まれてしんどくなったら元も子もないですからね、適宜自分に甘くなる部分も持ちながら。ここは数字なんかに売り渡さないぞ、ここがまさに自分の核心なんだぞというところをサンクチュアリとして置いておけば、なんだってどうにでもなると思います。

 

[取材・文]樋口 かおる [撮影]武藤 奈緒美