「勝ち負け」がわかりにくくなったから、余計に気になる?

前編では、東京に住む若者は「『何者』にもなれていないことに対するコンプレックス」を感じやすいのではないかというお話がありました。そもそも、「何者か」という概念自体が曖昧なものだともおっしゃっていましたが、なぜこの曖昧な概念が若い世代にとって重要なのでしょうか?

佐々木

明確な「幸せの基準」がないからこそ、そういった曖昧なものを持ち出して自分と誰かを比べるしかないのだと思います。かつては、「“いい会社”に入る」とか「高い賃金を稼ぐ」といった幸せの基準がありましたよね。もちろん、本当は勤務先の社名や給料の多寡で幸せが決まることはないと思いますが、明確な基準があったからこそ自分と誰かの「幸せ」を比べることができた。

でも、「自分らしく」と言われ続けてきた私たちも含めた若い世代には、基準になるものがないんですよ。「いいモノを買っておけばいい」「いい家に住んでいればいい」わけではないからこその生きづらさを感じている世代なのではないかと思います。

かつては「勝ち組」「負け組」という言葉がありましたが、少なくとも私の周りではこのワードを聞くことはありません。勝ち負けがわからない、そしてわからないからこそ、余計気になってしまうというスパイラルがある気がしますね。

麻布

「勝ち組」「負け組」という言葉を下品だと感じる人が増えている感覚があるよね。それに佐々木の言う通り、これまでの“勝ち方”は、ほとんどワンパターンしかなかったイメージがある。「“いい”大学に入り、“いい”会社に入社して、高い給料をもらって、30歳になるころに結婚して、東京郊外に一軒家を買う」というような。差が生まれるとすれば、せいぜい「どんな車に乗るか」くらいで、基本的には一つの物差しの上での勝負だったように思う。

だけど、いまや「幸せの基準」は人それぞれになった。無限の“勝ち方”があるがゆえに、誰とも自分の幸せを比べることはできない。そうして「自分の幸せってなんなんだろう」と考えることになるわけだけれど、なかなか答えが出せずに苦しんでいる人は多いんじゃないかな?

 

佐々木

誰かとの比較ではない、自分にとっての絶対的な「幸せ」を見出さなければならないけど、それがわからずしんどい思いをしている人は多そうだよね。

タワーマンション、東京から見るか? 地方から見るか?

麻布

「幸せはお金じゃない」のはたしかだと思うんだよ。でも、この言葉をある種の自己防衛として使っている人も一定数はいるような気がしていて。というのも、昔に比べると稼ぎ方も多様化したし、そのアップサイドもかなり高くなったよね。サラリーマンでは到底到達できないような年収額を稼ぐ人たちがうようよいるという事実に触れると、自分がその軸では勝てないことが明確にわかってしまう。

そうすると「幸せはお金じゃない」と言わざるを得ないわけだよね。そして自分にとっての幸せの基準を探すことになるけれど、なかなかそれを見つけることができない……。普段はサラリーマンとして生活している僕の印象だと、そんな苦しみを持っている人が多い気がするな。

 

それは「東京に住んでいるからこそ」の苦しみなのでしょうか? 地方に住んでいたとしても、さまざまなメディアを通してとんでもない金額を稼いでいる人がいるという情報には触れられると思うのですが。

麻布

あくまでたとえ話なのですが、東京に住んでいる友人から年賀状をもらったとするじゃないですか。そこに書いてある住所が、見覚えのある高級タワーマンションになっていたとしますよね。そのとき自分が東京に住んでいるのか、地方に住んでいるのかで、その「住所」から受け取る意味は大きく変わると思うんです。

東京に住んでいて、心のどこかにタワマンでの暮らしへの憧れを持っている人からすれば、それは「自分にも用意されていたかもしれない未来の一部」に見えると思うんです。過去のある時点で異なる選択をしていれば、その「住所」にいるのは自分だったかもしれないと想像できてしまう。

他方、地方に暮らしている方々にとって、東京の高級タワーマンションは、「過去に存在していたかもしれない未来のいちルート」には見えないと思うんです。もちろん、映画やドラマといったフィクションやニュースなどを通してその存在とそこに住んでいる人たちがいることは知っているでしょう。でも、そこに自分を重ねることはないと思います。

 

「そこにいたかもしれない自分」を想像できてしまうからこその葛藤があると。

麻布

ただ、東京に暮らし続けたとしても、そういった苦しさを感じるのは、大学を出てからの5年ほどではないかと思います。というのも、僕の印象では社会人になってからしばらくすると、身の回りにいるのは同じような生活をしている人ばかりになって、明らかに生活水準の違う人とは会わなくなる。そうして“上”を見てつらくなる、みたいな経験は段々と減っていくのではないかと。だから、僕もネタにはしているのですが、タワーマンションに住む人に対するルサンチマンを募らせている人って、実はあまり存在しないのではないかと思っているんです。

 

「東京」には、ギラギラしたイメージがつきまとう。だけど……

では、『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』の登場人物たちのように、東京で“上には上がいる”ことを知って苦悩し、地方に帰る選択をした人たちも、もっと東京にいれば楽になれたのでしょうか?

麻布

そう思いますよ。そのころには、「お金」という軸での戦いは放棄しているような状態にはなっているのだと思いますが、それも一つの幸せですからね。もちろん、地方での暮らしが向いている人もいると思いますし、全員が「東京に住めばいつかは楽になれる」と言いたいわけではありませんが、いずれにせよ大事なのは東京で「どうなりたいか」。自分らしい幸せのあり方を見つけなければならないと思います。

 

佐々木

東京でチャンスを掴みたいのであれば、大事なのは主体的に行動することだと私は思う。たしかに、東京にはヒト、モノ、カネ、情報といろんなものが揃っていて、たくさんのチャンスが転がっているように見える。だけど、「東京にいれば幸せになるためのチャンスをつかめる」わけではなくて、結局は自分から動くしかない。

「何らかのチャンスを求めて東京に出て来る」のはいいけど、チャンスをつかむための行動を起こさなければ何にもならないと。でも、どうしても主体的になりきれず、悶々としている人もいると思うんです。地方から出てきた人であれば、地元に帰るという選択ができるかもしれませんが、東京で生まれ育った人でもそういった人はいるのではないかと。

麻布

僕はそういった人たちを「透明化された東京人」と呼んでいます。『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』が発売されたとき、一部の方から「あの本には東京の一部しか描かれていない。麻布競馬場は視野が狭い」という批判をいただきました。ある意味ではその通りですよね。だって、僕は東京のすべてを書けるわけではないし、そうしたつもりもありませんから。

佐々木のように「東京で生まれ育ち、東京で自分の道を見つけた人」や、僕のように「地方から出てきて、東京で勝負することを選んだ人」はさまざまなフィクションの登場人物になりやすいんですよ。でも、東京にはたしかに「東京で生まれ育ち、挑戦することも苦悩することもなく、ただ東京で現状に満足して暮らしている人」もいて、そういった人たちはフィクションでは描かれにくい。そういった意味で「透明化された東京人」と呼んでいるんです。

 

特にテレビドラマなどで描かれる「東京で生まれ育った人」は、どこかギラギラしているというか、いわゆる「意識が高い人」が多いですよね。

佐々木

特定の髪型や服装をしている人を指して、「田舎のヤンキーみたい」と言うことがあるじゃないですか。でも、そういったステレオタイプな「田舎のヤンキー」は東京にもいるんですよ。

麻布

「一つの地方としての東京」も存在しているということだよね。そして、いわゆる「日本の中心としての東京」に生きている人と、「地方としての東京」に生きている人が、ぞれぞれの日常生活の中で交わることは少ないんですよ。

 

東京で“地元”を見つける

「東京は多様性のある街だ」と言われることもありますが、一個人がそれを実感を伴って理解するのは難しい?

佐々木

意識的に行動しないと実感しづらいかもしれません。最近、家の近くの居酒屋に行って、お客さんや従業員の方々と話すことが多いんです。そうすると、「東京にいるのは、いわゆる『成功』を掴むためにガツガツしている人ばかりではない」という当たり前の事実に気付きます。飲み過ぎて記憶がないこともあるのですが(笑)。

普段はいわゆる“いい”大学に通い、歌舞伎町というギラギラした街を拠点にしているからこそ、そういった事実を見過ごしやすいんだなと思いました。大学も歌舞伎町も、ある意味では特殊な場所なんですよね。最近はもっと東京を広く知らなきゃいけないなと思って、意識的にいろんなところに行っています。

歌舞伎町に集まる「ぴえん系女子」「トー横キッズ」たちへの取材と、自身の実体験を通して現代を生きる若者たちの実態を考察した佐々木さんのデビュー作。

麻布

僕も普段の生活では行かないような街に行くのが好きなんです。休日の夕方くらいに出かけて、公園のベンチに座ってお酒を飲んでいると、たまにおじちゃんたちに声をかけてもらえる。そこからいっしょに立ち飲み屋とかに移動して、1時間ほど話をして「じゃあ、また」みたいな。そのままその街のビジネスホテルに泊まるのが好きなんですよね。

 

佐々木

日常生活の中では交わらない方々のお話を聞くのは楽しいよね。

麻布

うん。僕の地元であれば、ほとんどの人が「いつかは交わるかもしれない人」なんだよ。でも、東京には「一生交わらないであろう人」がたくさんいる。もちろん、「そういった人たちとも積極的に交流すべき」とは思わないし、「すみ分け」はあってもいいと思う。

大事なのは、積極的に行動しながら、自分にとっての居心地がいい場所を見つけることなんじゃないかな? 僕と佐々木は生まれ育った場所は違うけど、今はよく飲んでいるし、共通の仲間もたくさんいるという意味で、同じムラにいるわけだよね。そこが一つの居場所になっているし、“地元”のようになっている。

 

佐々木

東京に住んでいる人の多くは、そういった意味での“地元”を持っているよね。前編でも話したけど、私も生まれた場所が地元だという意識は薄い。でも、歌舞伎町に行けば共通言語を持っている知り合いがたくさんいるから、そこが私にとっての“地元”になっているんだよね。

人によっては街ではなく、よく行く飲食店や何かしらのコミュニティなのかもしれないけど、「ここが自分の居場所だ」と思える場所があって、そこが“地元”になっていくんじゃないかな。

麻布

そういう場所があると、東京で生きていくことが楽になるよね。「生まれた場所」にとらわれない“地元”もある……というか、できていくんだと思うな。

 

東京で「いくつもの自分」を生きる

ただ、地元って居心地がいいと同時に、わずらわしさもあるじゃないですか。仮に人間関係がこじれても、そこから逃れられないのが「地元」だと思うんですよね。そういったわずらわしさとはどう折り合いを付けていますか?

麻布

コミュニティをいくつも持つことが大事だと思います。おっしゃる通り、生まれた場所としての地元だろうが、コミュニティとしての“地元”だろうが、ずっと同じ場所にいるとわずらわしいこともあるので。

 

佐々木

私も高校時代から意識してコミュニティを分散させています。「分人主義」(一人の人間の中にはいくつもの人格があって、それらの人格の集合体を「個人」ととらえる考え方。小説家の平野啓一郎が提唱)という概念もありますが、高校生の私はその言葉を知らなかったので、複数のコミュニティを持って、それぞれの場所での「自分」を持つことを「ハリー・ポッター分霊箱理論」と名付けていました(笑)。

ハリー・ポッターに出てくるヴォルデモートは、自らの魂を分割し、6つの分霊箱に保存していたからこそ、肉体が滅んでも「死ななかった」わけですよね。それと同じく、いくつもの居場所を持っていれば、一つの居場所にいられなくなったとしても、「他の場所があるから大丈夫」と思えるのではないかなと。今もその考え方は変わっていませんね。

麻布

めっちゃわかる。僕は常に「僕」じゃなきゃいけないのがつらいんだよね。ずっと同じ人格でいなければいけないと思うと、苦しくなってしまう。だから、複数のコミュニティを持って、「このコミュニティではこういうキャラでいこう」と「自分」を変化させているんだよね。いつも同じ自分のまま「これが本当の僕だ! ありのままの僕を見てくれ!」みたいな感じだと、もたないと思うんだよ。

 

「いくつもの自分」を持つことが重要だと。

麻布

そうですね。最近は「キャリア形成上のメリットがある」という文脈で「副業をして、いくつもの名刺を持とう」と言われるじゃないですか。そこにはもう一つのメリットがあると思っていて、それが「もう一つの顔」を持てることだと思うんです。そうすれば、一方の「自分」に過度の期待をせずに済むし、一方の自分がうまくいかなかったとしても問題ないじゃないですか。

わかりやすく言うと、僕は会社員でもあり、麻布競馬場という作家でもあるわけですが、仮に「麻布競馬場」が大炎上してしまったとしても、会社員の方の僕にはなんのダメージもない。「もう一人の自分」を持つことは、別の自分を守ることにもつながる気がしますね。

 

佐々木

東京って、「もう一人の自分」がつくりやすいよね。とにかくたくさんの人がいて、本当に多様なコミュニティがあるから。それに、先ほど言っていたように、それらは良くも悪くも交わらないことが多い。だからこそ、「いくつもの自分」を生きられるんじゃないかな。

「本当の自分」を見つけることが、自らに課された役割だと思っている人が多い気がするんだよね。それぞれの場所で、それぞれの自分を生きることが大事な気がするけどな。

[取材・文]鷲尾 諒太郎 [撮影]高橋 団 [編集]小池 真幸