【後編】磯野 真穂 × 宇野 常寛
自分らしく生きるため、「自分」から目をそらしてみる
人類学者と評論家が提案する、「自分の外側」との向き合い方
2022.10.05
自分の個性を見つけるため、あるいは自分らしく生きるために大切なことって?
よくある回答は「自分自身を見つめ直すこと」でしょうか。しかし、この記事でお話をうかがったお二人は言います。「自分の内面に光を当てていても、自分らしさは見えてこない」。
お招きしたのは、人類学者の磯野 真穂さんと、評論家の宇野 常寛さん。明文化されていないルールとして大きな力を持つ「空気」についてお話しいただいた前編に引き続き、後編では「空気」を読まず、自分らしく生きていくための具体的な方法をうかがいました。
ヒントは、自分の外側に「絶対的な価値を感じられるもの」を見つけること。情報社会が生み出した「自己表現によって、社会に対して個性を証明しなければならない」という呪い、かつて自己顕示の手段だった「消費」のいま、自分の「外」に目を向けるための方法……さまざまな領域を横断しながら展開される二人のディスカッションをお届けします。
( POINT! )
- 「個性」は自己表現の道具ではない
- 「何者かになりたいけど、何者にもなれない自分」をテーマにしたコンテンツが増えている?
- 平成に入って爆発的に増えた「自分らしさ」への言及
- 「さみしさとの上手な付き合い方」が求められている?
- 「自己顕示のための消費」ではなく、「対話のための消費」を
- 「自分」にばかり光を当てていても、自分らしい生き方はできない
- 自らの外部に、絶対的な価値を持つものを見出す
磯野 真穂
1999年、早稲田大学人間科学部スポーツ科学科卒業。オレゴン州立大学応用人類学研究科修士課程修了後、2010年、早稲田大学文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。専門は文化人類学、医療人類学。書著に『なぜふつうに食べられないのか──拒食と過食の文化人類学』(春秋社)、『医療者が語る答えなき世界──いのちの守り人の人類学』(ちくま新書)、『ダイエット幻想──やせること、愛されること』(ちくまプリマー新書)、『急に具合が悪くなる』(晶文社)、近著は『他者と生きる リスク・病い・死をめぐる人類学』(集英社)。
宇野 常寛
評論家。1978年生。批評誌「PLANETS」編集長。
著書に『遅いインターネット』(幻冬舎)、『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『母性のディストピア』(集英社)、石破茂との対談『こんな日本をつくりたい』(太田出版)、猪子寿之との共著『人類を前に進めたいーチームラボと境界のない世界』(PLANETS)など多數。立教大学社会学部兼任講師も務める。
「個性を発揮しよう」という考え方は“没個性的”?
磯野
前編では主に「空気」とは「明文化されていないけれど、強力な力を持つルール」だというお話をしましたが、「個性の重要性」もまた、なんとなく信じ込まれている空気の一つなのではないかと思っていて。「個性」がどのようなものなのかはさておき、「個性は大事だ」という意見に対してはみんな手放しで「そうだ!」と言うわけじゃないですか。
宇野
本当に個性的な人って、その生き方しかできない人のことだと思うんですよね。つまり、周りから「個性的だ」と言われている人は、何も自己表現をしているわけではない。でも、いまの使われ方を見ていると、「セルフブランディング」──この言葉は世界で一番嫌いなんだけど(笑)──として、個性を発揮することが求められているような気がしていて。
「自己表現をしよう」「セルフブランディングをしよう」という考え自体が、とても没個性的なものに思えてならないんですよ。だって、本当に個性的な人ってそんなことしようともしない……というかできないわけですから。
磯野
「『個性』とは何か」が考えられないまま、みんなが「個性が大事だ」と言っている気がしますよね。
宇野
そうですね。僕はサブカルチャーの評論家でもあるのですが、だからこそ自己表現の問題をとても深刻なものだととらえています。というのも、SNSなどのサービスによって表現するハードルが下がりましたよね。そのことによって、誰もがコンテンツのつくり手になれるようになった。
でも、だからこそ能力やアウトプットのクオリティの差が露骨に見えるようになってしまいました。このことが“ワナビー”層、つまり「あの人のようになりたい」と考える人たちを可視化したのではないかと思うんです。
「自分らしく、自己表現せねばならない」という呪い
受け手としてコンテンツを楽しむだけであれば、ただ「すごいな」「おもしろいな」で完結しますよね。でも、いまは誰しもがつくり手になれる可能性を持っているからこそ、「自分ももしかすると、あのつくり手のようになれるのではないか」と思う人が増えていると。
宇野
だからこそ、最近は自意識の問題、つまり「自分は周りからどう思われているんだろう」という悩みや「何者かになりたいけど、何者にもなれない自分」を主題にしたコンテンツが増えているような気がするんですよね。
多くの人がそういった悩みを抱えているからこそ、共感を呼びやすい。言い換えれば、「売れる」と考えられている。
宇野
『花束みたいな恋をした』という映画は観ましたか? あの映画はまさに象徴的な作品だと思っていて。菅田将暉さんと有村架純さん演じるサブカルチャー好きな大学生カップルの物語で、二人は大学を出たあと、社会の現実に打ちのめされて……と、そんなお話です。
この作品に出てくる若者たちは、本当にサブカルチャーあるいは文化的なものが好きなわけではなく“文化的なものが好きな自分が好き”なだけだと僕は思うんです。「ビジネスで成功して、一儲けしよう!」と言う人たちを「想像力がない人たち」と軽蔑しているんだけれど、本当に文化的なものを愛している人たちって、そもそもそんなことは意に介さず、単に目の前にある圧倒的に素晴らしいものにひれ伏しているだけですから。
映画『花束みたいな恋をした』公式サイト
…
宇野
このことは、多くの若者たちが「自己表現によって、社会に対して個性を証明しなければならない」という呪いに苦しんでいるということを示唆しているのではないかと思うんです。そして、「自分らしい自己表現」を求めることによって、自らその呪いをさらに強化することになってしまっている。このことが「文化的なものが好きな自分が好き」な人を量産し、結果的に表現そのものから人を遠ざけるような文化をつくってしまっているのではないでしょうか。
磯野
おっしゃる通りだと思います。近著『他者と生きる リスク・病い・死をめぐる人類学』を書くときに調べたのですが、特に平成に入ってから、「自分らしさ」を求める傾向が明確に強くなっているんです。
読売新聞と朝日新聞のデータベースを使って、「自分らしさ」「自分らしい」「自分らしく」という文言が見出しや本文に入った記事の数を年代別に調べまして。本にも書いたのですが、その結果は……1980年代、それらの言葉を使った記事は両紙合わせて53件しかありませんでした。しかし、1990年代には約45倍の2,374件、2000年から2010年の間では7,175件もあるんです。とても奇妙な増え方じゃないですか?
そんなに爆発的に! 平成が始まったのが1989年ですから、平成の始まりと「自分らしさ」が一気に増えた時期はぴったり重なりますね。
磯野
記事の中身を見てみると、ありとあらゆる問題や悩みに対する答えとして、「自分らしさ」が使われているんですよね。「部活でどうチームをまとめればいいか悩んでいる」という読者からの相談に対し、「あなたらしくまとめていきましょう」。「就職で悩んでいる」「あなたらしく働ける会社を選びましょう」……さらには「死」にさえも「あなたらしさ」が求められるんですよ。いわく「あなたらしい最期を迎えるための準備をしましょう」と。
バブルの崩壊によって「“いい”大学に入り、大きな企業に就職して……」といった、それまで全国民が信じていた“大きな物語”が消滅してしまったことの影響が大きいのだろうと思います。全員が共有していた「こうしていれば大丈夫」という拠り所がなくなってしまい、「個人それぞれが『自分らしく』生きていくことが大事」と考えざるを得なくなった。そうして、「自分らしさ」への言及が一気に増えたのだと考えています。
「個の時代」は“さみしさ”の時代?
平成以降で言えば、インターネットの影響も大きいですよね。前編では、SNSなどの登場によって、「自分らしさ」に対する他者からの承認を得やすい環境がつくられ、多くの人が“承認の交換ゲーム”に参加しているような状態になっているというお話がありました。でも、他者の承認を得るために「自分らしさ」を発揮するって、よく考えるとおかしな話じゃないかと思うのですが……。
宇野
そうですね。だから僕は、本当の「個性」や「自分らしさ」は、インターネットのようなコミュニケーションを遮断したところにしかないと思っています。みんな「個性が大事」と言いながら、相対評価しかしていないじゃないですか。だから、他者とのコミュニケーションを遮断したときに生じる「好き」とか「嫌い」にしか個性は宿らないと思うんですよね。
だからこそ、さみしさとの付き合い方が大事だと思っていて。SNSに常駐して、四六時中投稿している人って、やっぱりさみしい人が多いと思うんですよね。でも、ずっと誰かとつながっている状態では個性は見つけられない。さみしさとうまく付き合いながら、時には孤独になる必要があるのではないでしょうか。
磯野
私もそう思います。いまの社会ってとにかく「個」に光を当てようとするじゃないですか。でも、個を際立たせるということは、ある意味では周囲とのつながりを断つことでもあるわけですよ。
個にフォーカスするからにはさみしさが生まれることは避けられないし、さみしさを抱えることなしに個性って成立しないのではないか、とも思います。「個の時代」とも言われる現代社会、特に実生活において人のつながりが希薄だとされる都市部においては、「さみしさ」は一つの重要なテーマになるかもしれませんね。
宇野
僕、生まれたのは青森なんですが、親の仕事の都合で引っ越しを繰り返していたこともあり、子どものころから一人で過ごすことが多くて。その影響もあってか、一人の時間がないとダメなんですよね。
いまもフィギュアやプラモデルづくりが趣味の一つなのですが、子どものころから一人でフィギュアを眺めたり、プラモデルをつくったりしてモノと対話する時間を多く持っていました。僕のオタク的な素養はその時間に養われたんですよ。80年代、90年代のオタクたちって、いまよりもっと孤独だったんですよね。それが弱点でもあったんだけれど、強みでもあったような気がしていて。
磯野
モノとの関係性を通して、自分をたしかめていた?
宇野
いや、そういう感じでもなくて、ただ目の前のモノの美しさにひれ伏しているだけなんですよ。いまも自宅の一部屋がフィギュアで埋め尽くされているくらいなのですが、仕事終わりや休日になるとそれらを取り出して、何時間もいじってみたり、写真を撮ったりしています。
その対象はフィギュアではなくても、サボテンでも車でも何でもいいと思うのですが、「モノを消費する」のではなく、「モノと対話する」ことが重要だと思うんです。僕は消費社会批判の文脈でモノと人間の関係を考えない方がいいと考えています。
「消費社会に対する批判」とは、「際限なく生み出され続けるモノが、人々の欲望を喚起することによって、人々は常に満たされない状態に陥っている」みたいなことでしょうか?
宇野
そうですね。たとえば、80年代には「高価なモノを買うことが自己実現につながる」といったような、顕示的な消費が流行し、「資本主義社会は、次々とモノを生み出すことで人々の欲求を喚起し、人々を欲求の奴隷にしている」という批判が起こりました。
ですが、現在はどちらかというと、コト消費、つまりモノではなく何かしらの体験や経験に対してお金を支払うことの重要性が大きくなっているし、モノを所有することに対する批判の有効性は低くなっているのではないかと思うんです。だからこそ消費に対する考え方や、人とモノとの関係性を見つめ直すべきなのではないかと。
磯野
とてもおもしろいお話ですね。先ほど、年代別に「自分らしさ」という言葉が出てくる記事の数と内容を調べたというお話をしましたが、80年代から90年代初頭にかけては「消費」に関連する記事が多いんですよ。そしてその内容は、宇野さんもおっしゃったように「高い着物や車を買うことが、個性の獲得につながる」といったようなもの。
ただ、90年代中盤以降になってくると、「高いものは買わなくてもいい」という内容に変化していくわけです。「規格外の丸くないパールだけど、それを選ぶことも『あなたらしさ』なんです」といったような。モノとの向き合い方というか、消費と個性の関係性も時代と共に変化しているのかもしれませんね。
自分の外側に「絶対的な価値を感じられるもの」を見つけよう
磯野
ちなみに、撮影したフィギュアやプラモデルの写真を人に見せることはないんですか?
宇野
一部はInstagramに載せていますが、あまり多くの「いいね」はつきませんし、基本的には誰かに見せることが目的ではないですね。ただひたすらに、自分に対して圧倒的な力を放つモノと向き合い、その力を享受している感覚というか。
磯野
なるほど。人類学者としては、宇野さん個人の「神話」……あるコミュニティ内における「力」の裏付けになっている物語、を聞いているような感じがしたんです。神話が共有されることでコミュニティは凝集する。宇野さんは「圧倒的な力を享受している」とおっしゃいましたが、それはまさに個人的な神話を持っているということなのかなと。
宇野
日常的な社会活動とは切り離されたところで、圧倒的な力を持っているモノと向き合う時間が、僕にとっては一番大事な時間になっている。そういった、自己の外側に目を向ける時間の重要性が高まっているのではないかと思うんですよね。
自らの中ではなく、外に絶対的な価値を見出すことが現在の社会を生きる上では重要ではないかと。
宇野
僕、RPGゲームが好きじゃないんです。勇者がコツコツとレベルを上げて強くなって、最終的にはラスボスである魔王を倒す、みたいな。実際の世の中って、経験を積めばどんな問題でも突破できるようにはできていないじゃないですか。
一方で、ポケモンは好きなんですよね。あれって、主人公のサトシ君自体はまったく強くならず、ずっと「いけ!ピカチュウ!」とか言っているだけじゃないですか。サトシ君は自分の外部にあるものをうまく使いながら敵を倒していく。僕はどちらかと言うとそういう世界観の方が好きだし、しっくり来るんです。
磯野
自分に光をあてすぎないことが重要だと思いますね。たとえば、自分のことがわからなくなってしまったとき、コーチングなどを受けて自分の内面を見つめ直すのもよいかもしれませんが、自分の外側にあるものとの関係性を見つめ直した方がいいのではないかと思っていて。
外部にあるものとの関係性の中で自分がどのような感情を抱き、どのような言葉を発しているか。それを確かめることをおすすめしたい。ただただ自分の中だけに向き合っていては、他者と自分を比べてしまうことになって、大切なものが見えて来ないのではないかと思うんです。
磯野さんは、外部に目を向けるために実践していることってありますか?
磯野
走ることですかね。以前は、音楽などを聴きながら走っていたのですが、最近では何も聴かずに走るようになって。ただただ家があって、木があって……という空間や時間に身を置くことが重要なんだと思っています。
あとは、パートナーの存在も大きいですね。パートナーは私の仕事にはまったく興味がないみたいなんですけど(笑)、何があっても味方になってくれるような存在で。もちろんそれは友人でも誰でも、もしかしたら人ではなくてモノでもいいし、あるいは信仰とか、大切な本とか、そういったものでもいい。いずれにしても、〇〇と関係しているときに立ち上がる自分は心地よい、安心できる……そういう関係性がある場所を暮らしの中に複数持てることが大切だと思います。自分の外部に絶対的な価値を感じられるものを持つことが大切なのではないでしょうか。
[文]鷲尾 諒太郎 [撮影]須古 恵 [取材・編集]小池 真幸