空気を読めない人は“使えない”?

磯野

宇野さんとは初対面ですが、メディアでは何度も拝見していました。特に朝のワイドショーに出演されているときのことが印象に残っていて、番組内でその番組を降板することになったと発表されていたんです。「ああ、この人やめられるのか」と思ったことをよく覚えています。

 

宇野

あれは、たぶん番組の制作体制が変わったことがきっかけなんですよ。もともと僕を起用してくれていた意図は、スパイスにすることだったと思うんですね。既存のコメンテーターたちがテレビでは言わないようなコメントを僕がすることによって、変化を加えようと。

でも、新しい制作陣からすると、その「テレビらしくないスパイス」が疎ましいものだったのでしょうね。それまでは問題にならなかったことでかなりもめるようになってしまったんですよ。

磯野

もめる、というのは?

 

宇野

「ああいうことを言ってもらっては困る」と呼び出されるようになったんです。波風を立てるな、と。たとえば、アパホテルが陰謀論と歴史修正主義に満ちたトンデモ本を客室に置いて問題になったときに、僕がホテル側を批判したら、テレビ局に街宣車が来た、なんてこともありました。テレビ局にはありがちなことだと思うのだけど、ある時期からこのレベルのことでいちいち怒られるようになった。

あとは、政権批判ですね。「モリカケ」疑惑について、僕は学校側の右翼的なイデオロギーの問題を何度か指摘したのですが、それを「やめろ」と言われ、最終的にはスタジオで怒鳴られた。そういったことが続いて、最終的には降板することに。

しかも当時の制作陣たちは、何らかの思想を持っていて、僕を黙らせようとしたとは思えないんですよね。僕がある芸能人の私生活を追求するのはマスコミの暴力だと批判したときも結構怒られたので。単なる「事なかれ主義」で問題を起こしたくないから、「ああいったコメントは困る」と言っていたのではないかなと。

磯野

そんなことがあったのですね。

 

宇野

ただね、僕が問題だと思うのは「お前はテレビに出続けたいのだったらそんな事情は暴露するべきじゃない」みたいなことを言ってくるテレビ業界人がすごく多かったことなんですよ。

そもそも僕はコメンテーターとして自らの意見を率直に述べていただけ。でも、彼らにとって大事なのは、“村”の掟なんです。テレビ業界における暗黙の了解、言い換えれば「空気」を読めない人は起用できないと。

空気とは「明文化されていない制度」

磯野

「空気」って、明文化されていない制度だと言えると思うんです。そして、その拘束力はとても強い。なぜそう思うかというと、私にも宇野さんと同じような経験があるからです。

私は人類学者なのですが、ある大学で職を得たとき、看護学科に所属することになったんです。看護学科の学科長の方が「新しい風を吹かせたい」と私を採用したのだ、と言われたのですが、着任して早々にその学科長の方がいなくなってしまった。

そうしたら私は、すっかり学科内で異分子になってしまいました(笑)。いや正確に言えば、その大学に勤めている間は、自分が異分子であることに気づいていませんでした。2018年の冬、「あなたは中長期的に見てこの大学に必要な人ではない」といったことを言われ、ようやく「浮いていた」ことがわかったわけです。

 

宇野

磯野さんが言うように、明文化されていない制度、つまり「空気」が最も支配的な力を持っているということはよくあると思います。

特定の領域、業界、あるいは集団における既存のコミュニケーション領域を守るために、「こういった振る舞いをしてはいけない」と明文化されているルールってありますよね。でも、一番偉いルールは、明文化されていない「空気」。

磯野

そしてその「空気」は、いつの間にか出来上がってしまっている。「誰かがこう言ったから」あるいは「みんなで決めたから」といった根拠もなしに、なんとなく立ち上がってしまうものなんですよね。

たとえば、2000年代前半に狂牛病騒動が巻き起こりましたよね。主にイギリスで狂牛病に罹患した牛が次々と発見され、イギリスから食用牛を輸入していた日本も大パニックに陥りました。そうして、政府は食用牛を対象とした「全頭検査」を開始したのですが、これは科学的には意味がないと指摘(※1)されていたんですよ。でも、2001年から2013年まで一貫して「念のため」の全頭検査が続けられました。

 
※1:
生まれて30ヶ月以上が経過しないと、狂牛病にかかっているか否かの判断はできず、生後30ヶ月以下の牛に対する検査は無意味だと指摘されている。

磯野

これは想像でしかありませんが、これも特定の誰かが明確な意志を持って続けていたことではないと思うんです。そうではなく、国全体がパニックに陥る中で「食の安心安全」のために始めた全頭検査を続けなければならない空気があったのではないかと。だから当時から科学的根拠がないことは複数の専門家が指摘していたものの、万が一陽性が確認され、責められたら困るという思いから、「やめましょう」と言い出しづらい雰囲気になっていたのではないでしょうか。

 
磯野さんの近著『他者と生きる リスク・病い・死をめぐる人類学』(集英社、2022)。これまでの研究をベースに、「統計的」な人間観と「個人主義的」な人間観が人から「生の手ざわり」を奪っていることを指摘し、現代社会を生きる人としてのあり方を模索をしている

心の底では「みんなといっしょがいい」と思っている?

一度“答え”とされるものが決まってしまうと、たとえ根拠が怪しかったとしても、他の選択肢が提示しにくくなってしまうと。

宇野

「和を以て貴しとなす」ではないですが、みんなが「調和が大事だ」とするビジョンを共有することが求められていて、それが社会を不寛容なものにしているのではないでしょうか。そして、このことが示すのは、人は心の底では「みんなと同じであること」を望んでいる現実なのではないかと思うんです。

それを感じたのは、先ほども話題に挙げたワイドショーに出ていたときです。毎週のように炎上していたのですが、視聴者からの苦情の中で最も多かったのは「司会者が話をまとめようとしているのに、お前が余計なことを言うな」というものだったんです。「せっかく自分と同じ意見でまとまりかけているのに、“おかしなこと”を言うな」と。

ワイドショーとは、視聴者が「自らもマジョリティの一員であること」を確認して、安心するためものなんだと感じました。視聴者にとって、スタジオの意見が一致していることはとても大事。それを見て、「私も同じ意見だから、私は“正しい”のだ」と思えるわけですからね。だからこそ、スタジオにいる僕のようなコメンテーターが異論を言うことは許されない。

個性や「自分らしさ」なんて、実はみんな望んでいないと。

宇野

ちょっと角度を変えると、インターネットの変遷からも同じことが言えるのではないかと思っています。21世紀初頭、ブログやSNSが勃興しましたよね。そういったサービスの提唱者たちは「個人に発信能力を与えることによって、情報空間はより多様性に満ちたものになる」と語り、それを実現するためにビジネスを推進してきました。

もちろん、SNS上のアカウント数の増加と比例して、情報の絶対量は増えたと思います。でも、実際にシェアされている情報の内容が多様になったかというとどうでしょう。僕はむしろ、その幅が狭くなったのではないかと思っています。

情報量は増えたのに、幅が狭くなっているのはなぜなのでしょうか?

宇野

自分の投稿に対してたくさんの反応を得ようとするのであれば、すでに話題になっているもの以外の情報をシェアするメリットが少ないからです。さらに言えば、その話題に対してすでに支配的な力を持っている意見に対して「イエス」か「ノー」と言うことが、最も効率よく投稿に対する反応をもらう手段になる。

また同時に、フィルターバブルの問題もあります。つまり、SNSなどのアルゴリズムによって、利用者それぞれの嗜好に合わせた情報ばかりが表示されるようになり、自らの価値観から外れた情報には触れづらくなっている。その結果、ますます「自分はマジョリティ側なのだ」という思い込みを強化していくことになります。この問題は、個人が発信力を持ったことで、より一層大きくなったのではないでしょうか。

多くの利用者が「いいね」をもらおうとばかりしているから、話題もそれに対する意見も、似通ってしまうのですね。

宇野

そういうことです。現代の情報環境というのは、人の「みんなと同じでありたい」という欲望を換金するシステムを備えているのだと思うんですよ。SNSなどのインターネットサービスは、経済的、あるいは政治的な動員に活用されていますが、それらは人々の「同じでありたい」という思いを、巧妙にお金に変えるための手段だと言えるでしょう。

磯野

人は「同じでありたい」という欲望を持っているにもかかわらず、社会全体には「『個性』や『自分らしさ』が大事」という空気が漂っているじゃないですか。なぜ、そういったねじれが生じるのだと思いますか?

 

宇野

「承認」の問題が根っこにあるのでしょうね。「自分らしさ」に対する承認は、社会的かつ具体的に「成果」を挙げなくても得られる承認ですからね。しかし実際は「自分らしさ」「個性」への承認が得られる人は一握りで、ほとんどの人は、タイムラインの潮目を読んで、自分が認められたい人たちにアピールする、くらいのことしかしていないと思いますね。「界隈」で嫌われている人の発言の一部を切り取って炎上させて「界隈」のポイントを稼ぐ、みたいなことを目が出ない書き手とかがやっているのはよく見かけます。

そもそもSNSは承認の交換に特化したツールとして進化してきた。なぜならばそれがいちばん滞在時間を伸ばし、広告を効率よく見せるために手っ取り早いからです。そして、いま人類の結構な割合が満たされないものをプラットフォーム上の“承認の交換ゲーム“に参入することで補おうとしている。

社会は“ワイドショー化”している?

“承認の交換ゲーム“……耳が痛い言葉ですね。心のどこかでは「みんなと同じでいたい」と思いつつも、それでは他者からの承認が得られないから、「自分らしさ」を誇示せざるを得ない状況になっていると。

宇野

その影響はさまざまなところに表れていると思っていて、たとえば僕はアニメ評論家でもありますが、いまは個別の作品に対する評価って書きにくいんですよ。たとえば、ある巨匠が大病を乗り越えて、一つの作品を完成させたとしますよね。その作品を観て冷静に分析した結果、ちょっと粗が目立っていたとしても、それを指摘するとネット上ではプチ炎上してしまう。

それはなぜかというと、作品そのものよりも、「作品についてのコミュニケーション」を通して互いを承認することの方が重要になっているから。「あの監督が病を克服して作り上げたあの作品は素晴らしい」と言い合い、「みんな同じ」であることを承認し合うことの快楽のほうが、作品自体から受け取る快楽に勝っちゃうわけですね。

宇野さんの近著『水曜日は働かない』(ホーム社、2022)。「急ぐこと」「頑張ること」が求められがちな現代社会に対して「水曜日は働かない」ことを提案する表題作の他、宇野さんの日常をおもしろおかしく綴ったエッセイや、近年話題になったさまざまなドラマ・映画批評などが収められている

磯野

先ほどのワイドショーのお話に近いですよね。みんなが「自分はマジョリティーなのだ」と確認することで安心感を得ている。

ただ、私はSNSなどを活用し“承認の交換ゲーム”に参入しなければならない局面もあるのかな、と感じることもあって。大学組織に属さない独立研究者として仕事をしていて、一般の方々に向けたオンライン講座や、書籍を出版することで生計を立てているからです。宇野さんもオンラインコミュニティの運営などを手がけられていると思うのですが、“承認の交換ゲーム”を生み出さないよう、何か気をつけられていることはあるのでしょうか?

 

宇野

オンラインイベントやコミュニティ運営の中で、視聴者や参加者のコメントをなるべく読まないようにしていますね。オンラインイベントで視聴者から寄せられるコメントって、かなり“依存性”が高いものだと思うんですよ。自分の意見に対して「その通りだ」と肯定的な意見が寄せられると、どんなに理性的な人でも気持ちよくなってしまう。

その気持ちよさにハマってしまっている状態を、僕は「オンラインイベント症候群」と呼んでいるのですが、この“病い”にかかるのはイベントの登壇者だけではありません。コメントをする側の視聴者も、登壇者に「いいコメントですね」と意見を取り上げられることで気持ちよくなっているわけですよ。そして、双方がオンラインイベント症候群にかかってしまうと、互いに承認されるために互いが求める意見ばかりを言うようになってしまい、結果的に意見が先鋭化することになる。

話者と視聴者の間に、ある種の「共犯関係」が出来上がり、特定の意見だけが“正しい”とされるようになっていくと。これもワイドショー出演時に宇野さんがご経験されたことに近い気がします。

宇野

僕はオンラインイベントにおけるリアルタイムでのコメントのやり取りって、「思考すること」を奪うものだと思っているんですよね。だからこそ、僕は視聴者や読者を“接待”するようなコミュニケーションは絶対に取らないようにしています。

コメントを書き込んでくれた人を気持ちよくさせるようなことを言った方が、場としては盛り上がることはわかっています。でも、僕はそういった「空気」を読まないようにしているんです。

世の中にただようさまざまな「空気」の正体を、お二人の経験をもとに解き明かしてきた前編はここまで。後編では、“承認の交換ゲーム”から抜け出し、「自分らしく」過ごすためのヒントを探っていきます。誰かからの「いいね」ではなく、自分自身からの「いいね」に従っていきていくためには、自分にばかり目を向けていてはいけないとお二人は言います。後編もお楽しみに!

[文]鷲尾 諒太郎 [撮影]須古 恵 [取材・編集]小池 真幸