【後編】柴 那典 × 戸谷 洋志
「世界に一つだけの花」が流行ったのは、みんながNo.1になりたかったから?
音楽ジャーナリストと哲学研究者が考える、ヒットソングの読み解き方
2022.06.30
高校に入学した年、社会人になった年、震災の年──。ある年のできごとを思い出そうとして、当時流行っていたJ-POPや、そのころよく聴いていた音楽を手がかりにしたことはないでしょうか。時代のムードと音楽というものは、どうやら私たちがふだん意識している以上に、密接に結びついているようです。
音楽ジャーナリストの柴 那典さんと哲学研究者の戸谷 洋志さんによる対談の前編では、バブル崩壊後からメディアを賑わすようになった「自分探し」や「自分らしさ」と、それらの言葉がJ-POPの歌詞の中にも見られるようになってきた背景についてお話いただきました。
後編では、さらにJ-POP史を先へと進め、2000年代以降のヒットソングを題材に個性について考えます。見えてきたのは、時代が変わっても変わらない私たちの「自分探し」への熱狂と、そのアプローチの大きな変化でした。
( POINT! )
- 「世界に一つだけの花」が大ヒットしたのは、「No.1になる夢」が失われたから?
- ヒット曲はときに現実の「反対」を描き出す
- 現在のヒット曲の共通点は、“物語”があること?
- ラブソングから「愛の多様化」が見て取れる
- 愛に理由を求めるRADWIMPS、「意味なんかない」と歌う星野源
- レコメンドアルゴリズムに「好き」を譲り渡してはいけない
- 求められるのは、「自分自身を自分の人生の主人公にすえるための想像力」
柴 那典
1976年。神奈川県生まれ。音楽ジャーナリスト。
ロッキング・オン社を経て独立。音楽やビジネスを中心に幅広くインタビュー、記事執筆を手がける。著書に『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』(太田出版)、『ヒットの崩壊』(講談社)、『平成のヒット曲』(新潮社)、共著に『渋谷音楽図鑑』(太田出版)がある。
戸谷 洋志
1988年、東京都生まれ。大阪大学大学院博士課程修了。博士(文学)。
現在、関西外国語大学准教授。専門は哲学、倫理学。現代思想を中心に、科学技術をめぐる倫理のあり方を研究している。著書に『ハンス・ヨナスを読む』(堀之内出版)、『原子力の哲学』(集英社)、『スマートな悪 技術と暴力について』(講談社)など、共著に『漂泊のアーレント 戦場のヨナス:ふたりの二〇世紀 ふたつの旅路』(慶應義塾大学出版会)などがある。
「世界に一つだけの花」の大ヒットの裏には、人々の“葛藤”があった?
前編では、歌謡曲の時代から、「自分探し」という言葉が頻繁に聞かれるようになった90年代半ばまでのお話をうかがいました。J-POP史をもうすこし先まで進めてみると、2003年には、「自分らしさ」や「個性」を歌った平成最大のヒットソング「世界に一つだけの花」(SMAP)がリリースされています。「自分探し」がメディアを賑わした時代からはすこし時間が空いたように思いますが、「世界に一つだけの花」は、どうしてこの時期にこれほどまでの国民的ヒットを記録したのでしょう?
戸谷
難しいですね。私も確たる答えを持っているわけではないのですが、「世界に一つだけの花」の中で歌われている「一人ひとりの違いや個性を尊重することはすばらしい」というような価値観が、実は2003年当時、人々の中に完全には内面化されていなかったからなんじゃないか……と思うんです。
価値観が内面化されていなかった。つまり、当時の人たちは実際には、「NO.1にならなくてもいい」とは思えていなかったということでしょうか?
戸谷
ええ、もしかするとそういう面もあったのではないでしょうか。
90年代半ばには、それまでの詰め込み教育から一転して、学校教育においても「自分らしさ」や「生きる力」が重視されるようになってきたというのは前編でお話ししたとおりです。ただ、2000年代前半になると「自分らしさ」が大切だという風潮が高まる一方で、「KY(空気が読めない)」といった言葉が流行りだした。2003年当時、私は中学生だったのですが、「空気が読める人こそが優れている」という価値観がその頃から急速に浸透していったイメージがあるんです。
私も同世代なので、「KY」という言葉のブームは印象に残っています。いかに「KY」にならず、いじめのターゲットにされないよううまく振る舞うかが大切……という雰囲気はたしかにありましたよね。
戸谷
そうなんですよね。1994年に発売されたSMAPの「Hey Hey おおきに毎度あり」の中では、バブルが崩壊してもなお“未だバブリーなやつら”のことが歌われていたというお話が前編でありましたが、たぶんそのころにはまだ、「バブルはもう過ぎ去ってしまったけれど、戻れるのであればあのころに戻りたい……」みたいな空気が多少なりともあったんじゃないかと思うんです。
けれど、それでもみんな前に進まないといけないから、「自分」を模索し続けることを歌ったミスチルの曲を聴いてがんばろう、という感じだったんじゃないかと。
それと同じで、みんなが「自分らしさって大事だよね」と言っていたはずの2000年代前半にも、周りと同じ色に染まっていないと教室でいじめられてしまうような現実がたしかにあった。でも、だからこそ国民的アイドル・SMAPが「個性は大事」と声高に言う必要があったんじゃないか……そんなふうに私は思ったんですが、ちょっとうがった見方かもしれないので(笑)、柴さんのご意見もお聞きしたいです。
柴
戸谷さんがいま言ってくださったように、ヒット曲がときに現実の「反対」を歌っているという側面は、大いにあると思います。
たとえば90年代前半にバブルが崩壊し、大手証券会社であった山一證券の破綻などを経て、“不況”を人々が実感しはじめたころに大ヒットした曲がモーニング娘。の「LOVEマシーン」(1999)でした。歌詞には
“どんなに不景気だって恋はインフレーション”
“日本の未来は 世界がうらやむ”
とある。僕はこれを、不況ゆえに成立したヒットソングだと捉えているんです。日本の景気がこれからどんどん上向いていくと考えられていた高度経済成長期や「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われたバブル期には、“日本の未来は 世界がうらやむ”という歌詞じゃ、ポップソングとしてみんなが歌いたくなる気持ちにはならなかったと思うんですよ。日本中が「“世界がうらやむ”日本の未来というのはどうやら実現しえないぞ」という空気になってきたからこそ、この歌詞が反語的な表現として支持されたんだと思うんです。
同じように、みんながNo.1をめざしていた高度経済成長期の記憶だけが上の世代に残っている一方で、当時「失われた10年」と言われた経済の長期停滞が明らかになり「競争でNO.1になる」ことへの夢が失われた2003年だったからこそ、“NO.1にならなくてもいい”と歌う「世界に一つだけの花」のメッセージが多くの人に響いたのではないでしょうか。
2010年代のJ-POPも、「自分らしさ」に悩んでいるのか?
NO.1になるという夢が失われた時代だったからこそ、“Only one”を歌うJ-POPが人々の心に響いたというのは、とても興味深いです。いまのおふたりのお話をふまえて、2010年代以降のヒットソングについても考えてみたいのですが……2000年代前後と比べると、近年「自分らしさ」や「個性」を追い求めることをストレートに描く曲はやや減ってきている印象があるのですが、いかがでしょうか?
戸谷
2010年代以降に流行った楽曲の中で、ストレートに「自分らしさ」について歌っているのはサカナクションの「アイデンティティ」(2010年)などでしょうか。「自分らしさ」が大切であることが当然の前提になっている世代がリスナーになってきたというのはあるのかもしれませんね。
近年は、小説を楽曲にするというアプローチで知られるYOASOBIなどの「夜好性(YOASOBI、ヨルシカ、ずっと真夜中でいいのに。の3組のファンの総称)」アーティストの曲のように、バックグラウンドに“物語”がある楽曲が若者たちから支持されている印象が強いです。「自分らしさ」の希求以上に、ある種のフィクションを楽しみたいという欲望を感じているリスナーが多いのかもしれないと思います。
若いリスナーたちの間でフィクションへの需要が高まってきているとすると、それってどうしてなのでしょうか?
戸谷
ここまでお話ししてきたように、現代って高度経済成長期とは違って、誰もが頼りにできるような“大きな物語”のない時代だと思うんです。だからこそ、自分の人生を各々で意味づけていかなければいけない。夜好性アーティストたちは、各々が自分の“物語”を構築していくための想像力に、刺激を与えてくれるのではないでしょうか。
想像力の刺激……なるほど。柴さんは、2010年代以降のJ-POPと「自分らしさ」との関係を、どのようにご覧になっていますか?
柴
僕は、いまの時代も「自分らしさ」をテーマにした曲は多いのではないかと思っています。先ほど挙げてくださったサカナクションの「アイデンティティ」はまさにそうですし、YOASOBIの楽曲であれば、美大を目指す若者たちを描く『ブルーピリオド』という漫画にインスパイアされた「群青」(2020年)は、好きなものを見つけ、それと向き合うことで自分らしさを獲得していくという内容の歌詞です。あとは、「自分らしさ」を直接的なテーマとはしていないものの、星野源さんの「恋」(2016年)も自分と他者との関係のあり方について歌った、考察しがいのある歌詞だと思っています。
戸谷さんがおっしゃったとおり、現代においては「自分らしさ」が大切だというのはすでに前提になっているんですよね。その上で、2010年代以降の楽曲に90年代半ばや2000年代のヒットソングと違っている点があるとすれば……自分らしさが見つからなくてただ悩んでいるという地点に留まるのではなく、自分を見つけるためにどんなアプローチができるか、という実践的なところにまで踏み込んだ歌詞が増えている点なのではないかと思います。
RADWIMPSと星野源が歌う「恋愛」から見る現代性
星野源さんの「恋」が話題にあがりましたが、J-POPにおいて「恋愛」は「自分らしさ」と同じくらい、どの時代においても中心になり続けているテーマな気がします。ヒットソングの中には、恋愛を通じて「自分」や「自分らしさ」について改めて考えるという歌詞も多いように感じるのですが、おふたりはラブソングの中で描かれる「自分」や「自分らしさ」も、時代によって変化してきていると感じますか?
柴
近年のヒットソングで言うなら、僕はOfficial髭男dismが2019年にリリースした「Pretender」が、2010年代以降を象徴するような曲だと思っています。これ、すごくいろんな読み方ができるんですが、クィア・リーディング(異性愛の枠内だけに収まらない作品の読みとき方)も可能な曲だと思うんですね。歌詞を見てみると、
“もっと違う設定で もっと違う関係で 出会える世界線 選べたらよかった”
“誰かが偉そうに語る恋愛の論理 何ひとつとしてピンとこなくて”
とある。失恋の歌と読むことももちろんできるけれど、恋愛の論理がピンとこない、という表現からは、「恋愛」というもの自体からの疎外や“一般的な感覚”との不一致が歌われていると解釈することもできると思うんですよ。
なるほど……たしかに、別の“世界線”が選べたらよかったというフレーズからも、世間が押しつけてくる「恋愛」と自分との間に大きなズレを感じている主人公の姿を想像してしまいます。その上でサビの“君の運命のヒトは僕じゃない”という歌詞を聴くと、とても重く響きますね。
柴
「ふりをする人」「偽る人」という意味を持つ「Pretender」というタイトルも含めて、異性愛に疎外感を覚えているマイノリティを主人公にしている、ととらえることもできる歌詞ですよね。それだけが正解というわけではないでしょうが、そう読むこともできるような深みがある。「恋愛」というものに適応できない自分自身を俯瞰しているという意味では、すごく現代的なヒットソングだと思いますね。
戸谷
いまの柴さんのお話をお聞きしていて思い出したのですが……これはちょっと「自分らしさ」という本題からはずれるかもしれないんですけど、昭和の時代であれば多くの人にとっての共通認識になっていたような価値観やライフコースが失われたことで、近年、ラブソングにおける歌詞のアプローチも変わってきたように感じています。具体的に言うと、相手と自分が一緒にいることの「意味」が強く求められるようになってきた感覚があるんですよね。
相手と自分が一緒にいる「意味」というと、どういうことでしょうか?
戸谷
たとえば、RADWIMPSの曲の歌詞。RADWIMPSの曲って、運命や遺伝子といった壮大な話を持ち出して、現在の人間関係とは関係ないところに君と僕の絆の根拠があると説明しようとする傾向があると思うんですね。ただ好きだから一緒にいる、というだけでは足りなくて、「生まれる前にこういう約束をしてました」「来世ではこうなる予定です」みたいなところに理由を求めがち(笑)。
“君の前前前世から僕は 君を探しはじめたよ”って歌ってますもんね。たしかに、「いま、ここ」以外の結びつきをすごく求めるイメージです。
戸谷
一方で、星野源さんなんかの曲の歌詞を見てみると、正反対だと思うんです。「恋」には“意味なんかないさ 暮らしがあるだけ” というフレーズがありますし、“側にいること いつも思い出して”とも歌っている。星野さんの歌詞の中ではむしろ、いま、この瞬間の日常を相手と共有しているということが大きな意味を持つんですよね。これらのアーティストの価値観って対照的だけれど、実はどちらもとても現代的だと思うんです。
すこし前の時代であれば、人と恋愛関係になったら婚約をして、結婚し、子どもをもうけて家族になる……という物語が多くの人たちの間で共有されていた。けれどいまは別に好きだからといって相手と一緒にいることを選ぶとは限らないし、結婚したり、子どもを持ったりしない人たちもたくさんいますよね。
つまり、相手と自分の関係を、社会で共有されている物語によって説明しづらくなったからこそ、「好きだ」というのが何を意味しているのかをオリジナルの形で語る必要が出てきた。
同居や結婚、家族になるといったわかりやすいゴールがなくなって、目指す関係性が個人に委ねられるようになったからこそ、どうして相手と自分は一緒にいるんだろう? という疑問が生まれるようにもなった、ということでしょうか?
戸谷
そうだと思います。RADWIMPSや星野源さんは、そういった疑問に答えるメッセージをそれぞれの形で持っているからこそ、これほどまでに多くの人たちから支持されているんじゃないかな、と個人的には思っています。
自分の「好き」を誰かに譲り渡さないために
ここまで、J-POPの歌詞を通じて「自分らしさ」や「自分探し」についてのお話をうかがってきました。すでに話題にもあがったように、日本では「自分らしさ」を大切にしようというメッセージが20年以上発信され続けてきた一方で、周りと足並みをそろえないと後ろ指をさされてしまうようなムードもいまだに存在します。そんな中で、私たちが「自分らしく」生きていくためにはどんなことを大切にすればいいんでしょうか。最後に、おふたりの考えをお聞きしてみたいです。
柴
これは僕がヒットソングと日々向き合っている中で感じることなんですが……ヒットソングって、ひとつの曲に込められた新しいアイデアや考え方が世の中にシェアされていくことによって生まれるんですね。これまでの時代は、その火付け役がマスメディアだったけれど、ソーシャルメディアの誕生以降は、個人発のバズや、スマートデバイスが提供する情報によってヒットが生まれるようになってきました。
そんな時代において、みんなが「自分らしさ」や「個性」を大切にしているというのは大前提でありながらも、すこし気を抜いていると、毎日見ているソーシャルメディアやアルゴリズムに提供される情報によって、自分の好き嫌いが左右されてしまう危険性があると思うんです。
それはたとえば、TikTokやYouTubeの中でおすすめされる動画や音楽が、自分が検索したものや一度目にしたものに影響を受けてどんどん最適化されていく……というようなことでしょうか?
柴
ええ、そうです。自分の好き嫌いが、知らず知らずのうちにアルゴリズムへの最適化によって損なわれてしまう怖さがあるということは、きちんと覚えておくべきです。そんな時代だからこそ、自分の「好き」を誰かに譲り渡さない、みんながどう言っているかとか何がおすすめされてくるかに左右されず自分の好き嫌いを自分自身で判断する、ということがいちばん大事なのではないかと僕は思います。
戸谷
柴さんがおっしゃるとおり、自分の「好き」を人に譲り渡さないことはとても大事ですよね。先ほど「夜好性」アーティストについての話題の中でも言いましたが、私は、自分自身を自分の人生の主人公にすえるための想像力を育んでいくことが大切なんじゃないか、と感じています。
「自分を人生の主人公に」と言うと、人とは違った珍しい経験や実績を積むことが大切だというふうに聞こえるかもしれませんが、そうではありません。むしろ、周りの人と同じような経験をしていても、その経験をどのように自分だけの物語にできるかが重要なのだと思います。
大きな病気を経験するとか、大切な試験や面接に落ちてしまうとか、「こんなはずじゃなかった」と思うようなことって、誰しも人生の中で一度はありますよね。そういう挫折に直面したときに、それまで自分が歩んできた道をどう意味づけ、新しい人生をどう描き出そうとするか。そんな姿勢にこそ、何よりも「自分らしさ」が表れてくるのではないでしょうか。
J-POPは、自分の人生を自分で意味づけ、オリジナルの物語にしていくための想像力を刺激してくれる資源の宝庫でもあります。特に若い人たちには、音楽をそんなふうに活用してもらえたらいいなと思っています。
[文]生湯葉 シホ [取材・編集]鷲尾 諒太郎