【後編】今井 祐里
「役に立つかどうか」だけじゃなく、「正しいかどうか」も語ろう
哲学対話でひもとく、「多様性のある社会」
2022.05.19
考えれば考えるほどよくわからなくなる、「多様性」という言葉。
「『多様性がある社会』ってどんな社会?」「多様性を認めたくない人の主張を受け入れることも、多様性なんだろうか?」……。一人で机に向かっていても、堂々巡りになってしまいそうな疑問がふつふつと浮かんできます。
そんなやっかいなテーマに真正面からぶつかってみたい! でも、私たちだけではちょっと心細い……。ということで、力をお借りしたのは、哲学対話のファシリテーターとして活動する今井 祐里さん。前編では多様性にまつわるさまざまな疑問を挙げながら、「多様性のとぼしさ」を理由に害をこうむっているか否かによって、多様性を求める視点が変わることについて考えました。後編でもお互いの意見や経験を語り合いながら、簡単には答えが見えない問いに向き合います。果たして、どんな結末にたどり着くのでしょうか――。
( POINT! )
- 「有用性」は同じ土台で対話するための共通言語
- 「誰かのための怒り」を通じて、私たちはわかり合えるのか
- 多様性を損なう行為を「人それぞれの趣味」にしてはいけない
- 正しさは、有用性に並ぶ共通言語かもしれない
- 正しさの話を「青臭い」と冷笑しないで
- 悲しみや怒りに「じゃあ、どうする?」と向き合う
- 多様性について対話する機会こそ多様であってほしい
- ロジックはつねに正しいわけではない
- 「パーパス経営」や「会社の飲み会」だって、哲学対話のテーマになるかも?
今井 祐里
修士(哲学)。「問いとアイデアの総合商社」をテーマに、企業のモノづくりをサポートするセオ商事に勤めながら、哲学対話のファシリテーターとしても活動。表参道にある自由大学で哲学対話の講座を開催したり、企業や学校、地方自治体へ出向き哲学対話の場をつくったりしている。哲学カルチャーマガジン『ニューQ』編集部。推理小説とサウナが好き。
小池 真幸
『うにくえ』編集部。
1993年、神奈川県生まれ。人文・社会科学やデザイン、ビジネスなどの領域で、編集・ライティングを中心に自営。朝型なので、徹夜が苦手です。
中山 明子
『うにくえ』編集部。
1992年、埼玉県生まれ。スタートアップで働くかたわら、ライター/編集者として活動。春先は、自宅のベランダでひなたぼっこしながら仕事をしています。
鷲尾 諒太郎
『うにくえ』編集部。
1990年、富山県生まれ。大手企業、スタートアップを経て、ライター/編集者として独立。バスケとコーヒーが好きで、立ち飲み屋とスナックと与太話とクダを巻く人に目がありません。
立場が違う者どうしが対話するための「共通言語」とは?
中山
前編では、多様性について語るときの視点は「不利益をこうむっている当事者の立場」と、「有用性を根拠として采配を振るう立場」があるという話になりましたね。自分が害をこうむっているときは「私」として多様性を求める声をあげられるけれど、当事者でないときは「人類代表」のような立場で「みんなの役に立つから、多様性が必要だ」と言わざるを得ない、という話でした。
「当事者かどうか」という立場の壁をこえて、多様性について議論するにはどうしたらいいのでしょう?
今井
自分と感性や考え方が違う人と対話をするときには、理性的な言葉が求められますよね。「これは役に立つから大事だよね」という有用性のロジックは、ひとつの共通言語になっているのかもしれません。だから、前編でも触れたように、多様性がそこなわれている状態をただ「嫌だ」と感じているときも、その気持ちを根拠に多様性を求めるのではなく、有用性に言及しようとするのかな。
中山
「私はこれが嫌だと思う」という感情は、自分と違う価値観を持っている人とはなかなか共有しづらいもののような気がします。反面、有用性はロジックで説明できるので、共有しやすいですもんね。
鷲尾
有用性のほかにも、どんな人とでも同じ土台で議論するための共通言語はあるんでしょうか?
小池
ぼくは、前編でお話しした義憤の感情、つまり、誰かのために怒ることが共通言語になりえるかが気になります。不当な差別やそれによって悲しんでいる人がいることを知ったとき、そういった被害を受ける人がいない社会をつくらなければならないと、怒りまじりの感情を抱くことがあるんです。
みなさんは「自分は被害者ではないけれど、誰かのために怒っている」って、どんな場面を思い浮かべますか?
中山
たとえば、会社で「若手が飲み会でお酌をしなきゃいけない」みたいな慣習を止めてくれる先輩は、義憤によって動いているような気がします。今は被害を受けている側ではないのに、「もうやめようよ」と言う理由はどこにあるんでしょう。
鷲尾
ぼくが先輩の立場だったときは、義憤というよりも自分でお酒を注いだほうが早いから、後輩たちには「やらなくていいよ」と言っていましたね(笑)。
小池
鷲尾さんからすると「有用性がないから、もうやめようよ」なんですね。
鷲尾
そうそう。じゃあ、義憤は何に対して感じるのかというと……。たとえば、アフリカの飢餓は「かわいそうだ」「どうしてこんなことが起こるんだ」と疑問に思うけれど、怒りとは少し違います。一方で、マイノリティの方々に対する差別に対しては憤りのような感情を抱くんですよね。
今井
義憤の感情も、当事者としての怒りの近くにあるのかもしれませんね。たとえば私は、「医大で女子受験生の得点が不当に下げられた」というニュースに女性という当事者として、腹が立ちました。
似たような経験があるから、不当な差別に関する事件を目の当たりにしたら、「あのニュースと同じようなことが行われている」と怒りの感情を持つ。逆に、当事者として怒りを覚えたことのない人からすれば、同じニュースを見ても感情は大きく動かないんじゃないかと思うんです。
鷲尾
義憤を覚えるには、しいたげられる側の立場をリアルに想像できるかどうかが重要ということですね。たしかに、自分がアフリカの子どもたちのように飢えることは想像がつかないけれど、突如しいたげられる立場になる可能性は大いにあると思っているのかも。もちろん、貧困と差別の問題は別のものかもしれませんが。
「多様性なんていらない」は、「多様な意見の一つ」として認められるのか
今井
話は少し変わりますが、私は多様性に向き合う姿勢を「趣味の問題」にとどめたくないんです。「多様性なんていらない。誰かが差別されていようが構わない。そして、それは私の“趣味"の問題だから、とやかく言われる筋合いはない」という主張を見かけることがあるけれど、本当にそうなんでしょうか? それも一理あると思ってしまったら、もう何も話せなくなってしまいますよね。
小池
ここでいう「趣味」って、なんなのでしょう。
中山
編集者たちが使う「趣味直し」という言葉を思い出しました。編集者はライターが書いた原稿に修正を入れていくわけですが、そのうち明らかな誤りの指摘ではなく、「こっちの言葉づかいのほうが好きだな」と修正することを指す言葉です。同じように、個人の好みで判断することを「趣味の問題」と言うのかなと。
今井
いい例ですね。好みの話ではなく、正しいかどうかの話になったときに「人それぞれだよね」の域を出るのではないでしょうか。好き嫌いは人それぞれでいい。でも、たとえば差別を許す許さないは「趣味の問題」で済ませてはいけないと思うんです。
小池
嫌悪を感じること自体は問題ではなく、その気持ちを行動につなげてしまうことが問題だと。一理ある気がしますね。
鷲尾
多様性について話をするとき、「本当に多様性を尊重しようとするなら、『多様性を尊重しない』人も受け入れるべきなのでは?」と考えることもあるのですが、それは趣味の「好き/嫌い」と、行為としての「正しい/正しくない」を混同してしまっているのかもしれませんね。
「正しさ」は、もう一つの共通言語かもしれない
中山
今の話をしていて、「正しさ」も多様性を語る視点として重要ではないかと思いました。私は、当事者として怒っているわけではないし、有用かどうかもわからないけれど、「多様性が必要だな」と思うことがあって。
どんなときにそう思うかというと、組織や集団の状態を「正しくない」と感じるときです。たとえば、職場でちょっとした用事で10分くらい喋りかけてくる人っているじゃないですか。私は多様な仕事のスタイルが認められるべきだと考えていますが、感情的にはそういう人たちのことがちょっと苦手です。有用性の面でも「いや、メールでひとこと言ってくれたほうが早いじゃん!」とツッコミを入れたくなることが多々あります。
でも、急激にリモートワークが広がるなかで、そういう人たちは慣れ親しんだ仕事のやり方がいきなり通用しなくなって苦しい思いをしているはずです。彼らのことは感情的に好きではないし、ただなんとなく話しかけることの有用性もあまり感じません。だけど、働き方の多様性が損なわれている状態は正しくないと思うから、「職場でいちいち話しかけてくる人は、非効率なので評価に値しない」という主張には反対します。有用性や好き嫌いを離れて、正しさという基準で多様性を守るための議論はできないでしょうか。
今井
なるほど。「正しさ」は有用性に並ぶ共通言語だと。
小池
有用性は便利だし必要だけれど、唯一絶対のものとしてみなすのは危険ですよね。一見すると有用性は客観的で強いもので、正しさは主観的でもろいように思うけれど、実はそれぞれ同じくらいの力があるのかも。
「正しさ」の話を「人それぞれだよね」と冷笑しないで
今井
もう一つ思うこととして、「正しさ」を語ることを「青臭い」とする風潮が嫌なんです。「有用性の話をしている人こそが理性的で、正しさの話をする人は現実が見えていない」みたいな理解があるんじゃないかと。そういう傾向が強くなりすぎているから私たちもつつましくなってしまって、うまく対話ができなくなっているんじゃないでしょうか。
鷲尾
そうですね。つい「『正しさ』って人それぞれだからね」と、わかったようなことを言ってしまいます。
小池
「正しさ」をネタとして冷笑することがカッコいい、みたいな風潮すら感じることがあります。正しさについての語りが増えすぎたことで、それに対するはね返りが起きているのかもしれません。正しさを求めるための議論が、議論に勝つための議論になってしまっているというか。でも、いまの議論を聞いて、もっと素朴に「何が正しいんだっけ」と議論することが必要なのかもと感じました。
今井
暴力的な装置のように思われることもありますよね。「正しさの話をする人は怖い」みたいな。
中山
有用性の面では認められるけれど、正しさの基準で認めてはいけないことってあるはずですもんね。たとえば、特定の集団への差別感情をあらわにしている会社があったとして、社会にとって有用な存在なら見過ごされてもよいのでしょうか。従業員が納得ずくなら、多額の利益を出している“ブラック企業”は許されるのでしょうか。「人それぞれの正しさがある」で済ませてはいけないこともあるように思います。
今井
「私たちがいいんだから、それでいいじゃないか」から目を背けてはいけないと。
中山
そうです。誰かがしいたげられているはずなのに、話が打ち切られてしまう。
「あなたの感想だから議論の余地なし」で終わらない対話を
今井
誰かが不当にしいたげられることはおかしいし、ある人が悲しんでいたら「悲しいのはよくないじゃん!」って思うじゃないですか。感情の話だからといって「人それぞれ」の領域にとどめておかず、何らかの形でみんなで話せるといいですよね。そこからしか始められない正しさの話があるかもしれません。
鷲尾
「それはあなたの感情だから議論の余地なし」じゃなくて、「なぜ悲しいのか」とか、「自分もこんな気持ちになる」とか、みんなでそういう話をしていけると、正しさらしきものに近づいていけるんじゃないかと思いました。
中山
とりわけオフィシャルな場面になると、感情は端に置かれて、有用性に偏った話になりがちですよね。感情が有用性と同じくらい大切にされる場が必要ですね。
小池
これはあくまでもたとえ話ですが、最近は「それはあなたの個人的な感想にすぎませんよね?」と論破するセリフに象徴されるように、「感想」が軽視されがちな印象があります。でも、「あなたの感想」だって大事な場面はあるはず。
今井
私もそう思います。みんなが「自分の感想」を持っているのは当然のことですよね。むしろ、一人ひとりの感想からしか共通の正しさを探っていく対話はできないとさえ思います。感情に対しても、「お気持ち」などと揶揄してしまうのではなく、たとえ自分には理解できない心の動きだとしても、「この人はどうして怒っているんだろう。何か理由があるんじゃないか」みたいに考えられたらいいなと思います。実践するのは本当に難しいことですけれど。
多様性について対話する場所も、多様であってほしい
鷲尾
いろんな組織で、もっと対話の機会があってもいいですね。特に会社はどこでも有用性が偉い顔をしていますけど、そうじゃない場所があってもいい気がします。
今井
メンバーの属性で多様性を確保するだけじゃなくて、対話や意思決定のしかたも多様だったらいいですね。
鷲尾
「楽しそうだから、これにします」「ムカつくから、これはもうやめます」みたいな意思決定があってもいいかもしれない(笑)。
中山
確かに(笑)。感情をひも解いてみたり、そこから有用性だけではない正しさを検討したりする対話の選択肢も認められたら、居心地のいい多様性にもつながりそうですね。
今井
お互いに、いま抱いている感情や「正しいと思うこと」の背後にある理由を話し合えたらいいですよね。哲学対話だと「理由をひも解いてみたら、バチバチに対立していた二人の主張が実は一致していた」なんてこともよくあって。最後の最後で「うちら、ずっと同じこと言ってたじゃん」って気付くこともざらにあるんですよ。
小池
へえ、おもしろい!
「パーパス経営」や「会社の飲み会」だって、哲学対話のテーマにしたらいい
中山
いま、パーパス経営(企業の存在意義を基軸に、経営戦略を決定する経営スタイル)が流行っているじゃないですか。残念ながら、経営陣が独断で決めたスローガンを掲げるだけになっているケースもあるそうですが……。なるべく多様なメンバーで「この会社の存在意義ってなんだろうね」と対話するような場を、企業の中でもつくれたらいいのかなと思いました。
鷲尾
パーパス経営のやりかたも、みんなで議論しながら設計できたらいいですよね。
今井
そういった議論を通して、自分の中にある多様性にも気づけると思います。
鷲尾
哲学対話のような場をいろいろな人が持ってくれたらいいなって、素朴に思います。会社で同僚とやったら絶対におもしろいのに。
小池
たとえば昔は、会社の飲み会がある程度そういう場として機能していたのかもしれないですね。目的はないけれど、比較的フラットに話せるというか。
鷲尾
一部の人にとっては抑圧の場だったかもしれないけれど、発散的にこういう対話ができる場というか。
小池
もちろんぼくも、旧来の姿で復活させるべきとは思いません。でも、会社の飲み会が持っていたポジティブな機能は、何かで代替できたらいいのかも。お酒が苦手な人や、夜の飲み会に行きづらい人も参加できるような形で。
鷲尾
「飲み会のなにが正しかったんだろう」「なんで正しいと思うんだろう」と、対話をしてみたら正解が見えてきそうですね。うーん……時間がいくらあっても足りないですね。まだまだカバーしきれなかった問いもありますが、今日はこのあたりでお開きにしたいと思います。
小池
うわあ、わからないことが増えたなあ。いつまでも話せそうです。
中山
本当ですね。気持ちのいいモヤモヤです。今井さん、ありがとうございました。
今井
私も楽しかったです。ありがとうございました!
[文]中山 明子 [撮影]須古 恵 [編集]鷲尾 諒太郎