人となり、人格、性格……「個性」に似た言葉と比べてみる

前編では、いままさに使われ方が大きく変化しつつある言葉にどんな姿勢で向き合えばいいか、についてお聞きしました。そのなかで、「言葉をほぐして別の言葉に置き換えてみる」ことが大切だというお話が出ましたが、後編では『うにくえ』が問いとして掲げている「個性」という言葉を、古田さんと一緒に、実際に「ほぐして」みたいと思っています。

古田

言葉をほぐすとき、最初のとっかかりとしては、類似した言葉と比較することが簡単で有効でしょう。具体的には、ある言葉によく似た言葉を持ち出してみて、「この言葉にはこういう形容詞が結びつくけど、もうひとつの言葉のほうには結びつかないな」「この言葉はこういうときによく使われるけど、もうひとつの言葉を使うとちょっと不自然だな」というのを考えてみることです。

 

「個性」の場合だと、似た言葉はなんでしょうか?

古田

うーん。たとえば、「人となり」とか「人格」、「性格」あたりでしょうか。

「個性」に関しては、「個性を育てる」とか「個性を磨く」、あるいは「個性がある」「個性がない」みたいな言い方をしますよね。でも、「人となりを育てる」とか「人となりがある」とは言いません。同様に、「人格がある」とか「性格がない」とも言いませんよね。また、「性格を育てる」というのもちょっと変な気がします。

 

たしかに。人となりや人格、性格といったものは、わざわざ育てたり磨いたりしなくても、最初から備えられているもの、みたいなイメージなんでしょうか?

古田

そうかもしれないです。少なくとも個性はそれらとは違って、積極的に育てたり磨いたりできるし、なくしてしまうこともありうる、というわけです。

 

「個性」という言葉は「徳」に似ている?

古田

……そうやって似た言葉と比較していくと、個性という言葉は「徳」という言葉に意外と近いんじゃないか、と僕は思ったんですが……。

 

えっ? 「徳」って、「人徳」とか「徳がある」のように使うあの「徳」ですか?

古田

そうですそうです。徳も「育てる」ものだし、徳が「ある」「ない」とも言いますよね。

さらに、西洋の古代ギリシアの時代に目を向けると、「徳」にあたる言葉はギリシア語では「アレテー」だったんです。

 

アレテー……あまり聞きなじみのない言葉です。

古田

アレテーとは「卓越性」。他よりもすぐれているところ、という意味です。たとえばナイフのアレテーはよく切れることだし、馬のアレテーは速く走れること。そのなかで、人間のアレテーを挙げるなら、歌がうまいとか手先が器用だというのも十分ありえます。

 

なるほど。それをお聞きしていると、たしかに徳と個性は近いのかも、と思えてきました。でも、現代では徳を「卓越性」という意味で使うことはあまりないですよね?

古田

そうですね。たとえばソクラテスは、人間ならではの、真の卓越性とはなにか? と問うて、「それは、正直さとか勇敢さといった、道徳的な卓越性だ」という答えを導き出した。現代で私たちが使っている「徳」のニュアンスはそれに近い。……だからやっぱり、個性とはすこし異なりますね。

 

現代だと、「徳」は「道徳的」という意味で使われるほうが一般的だから、個性からはちょっと遠い、ということですね。どちらかというと、卓越性という言葉そのもの、つまり「他よりもすぐれている」ことのほうが個性に近いかもしれない、と思いました。でも、必ずしもすぐれていることだけが個性になるわけではないし……。

古田

その通りです。それから、「ヘタウマ」みたいな言い方もしますけど、一般的には劣っているととらえられがちな特性でも、積み重ねられていった結果その人の個性になる、ということもありますしね。

そもそも、たとえば「歌がうまい」とか「下手」だとか、その項目自体が個性になるかと言うと、それも違うでしょう。歌がうまい人も下手な人も、世の中にはたくさんいますから。歌の上達のために音楽教室に通ってみる、ということで個性が生まれるかというと、必ずしもそうはならない。

でも、たとえばその「音楽教室に通った」ことからなにかその人ならではの経験が生まれて、それが結果的にひとつの個性を形づくるということは、十分ありえる。

 

たしかに、そこで身につけた発声法や体の動き、リズム感、もののとらえ方などがあわさって「個性」になるかもしれないですね。

古田

だから個性は、「これが個性です」と一般的な項目として言い表せるものではなくて、ある項目を持った上で各々がなにかをやってきたという、これまでの道行きそのものだという気もしてきます。

しかも、その道行きのなかには偶然の出会いや偶発的なできごとも多分に含まれる。そういった「偶然」や「運」をも自分のものとして受け止めて生きていくことが、結果的に、個性としか言いようのないものをかたちづくっていくのではないでしょうか。

 

「自分らしくいよう」と思いすぎるのは危ない

個性についてのいまのお話からは、「自分らしさ」という言葉を連想したんですが……「自分らしさ」も、個性とはやっぱり違いますか?

古田

うーん……。自分らしさってあくまで「らしさ」ですよね。「らしさ」には、自分のイメージやスタイルを守っていくというニュアンスを感じます。

たとえばスポーツにおいて「日本らしい戦い方」という言い方をするときは、そのプレースタイルを守る、というような意味合いが強いのかなと。

 

みんなが「日本らしい」と感じるイメージがなんとなくあって、それを守ったりなぞったりする、というニュアンスかもしれないですね、たしかに。

古田

自分らしさとか「〇〇らしさ」って、基本的には他人から見てはじめて見えてくるものなんじゃないかと思うんです。

たとえば、自分ではなにか新しいことが書けた、と思っていても、「今回の本、すごく古田さんらしいですね!」って人から言われたりすることはよくある(笑)。それってつまり、他人から見ると漠然とした「古田らしさ」のイメージがあるということですよね。

 

反対に、自分にとっては自然なことでも、相手にとってちょっと意外な面を見せると「どうしたの、〇〇さんらしくない!」と言われたりしますもんね。

古田

そうそう。その「らしくない」が重なっていくと、この人にはこういう面もあるんだ、とようやく思われたりする……「らしさ」って、そういうもののような気がします。相手と安定して付き合っていくためのとりあえずの像、というか。

だから、自分自身に対して「自分らしくいよう」と思いすぎるのはちょっと危ないんじゃないかと思います。自分で自分を縛ってしまう可能性がある。

 

でも、周りに流されて自分の意見を言えずにいるときなどは、「自分らしくいよう」と前向きに思ったりもしますよね。

古田

たしかにそうだ。ここは考えどころですね。「いま、周りに流されてるな」「自分らしくないな」と感じるときって、どういうときなんだろう。

 

うーん……。私自身のことで言えば、どこかきどった文章を書いてしまったり、だれかに憧れて背伸びした表現を使ってしまったりしたときに、「これは自分らしい文章じゃないな」と思うかもしれません。他人の目線を自分のなかに取り込んで、ジャッジしているみたいな感覚がすこしあるかもしれないです。

古田

基本的には、「自分らしさ」ってそういう目線だと思うんです。他人の目線を内面化して、「これは自分らしくないな」とか「自分らしさってどこにあるんだろう?」と悩んだりする。それはもちろん必ずしも悪いことではないけれど、自分が変わっていくことを妨げてしまうような部分もあるかもしれないですよね。

 

なるほど。逆に「自分らしさ」にこだわらないで新しいことをしようと思うと、さっき古田さんがおっしゃったとおり、それが他人からは「〇〇さんらしさ」に見えたりする……。難しいですね。

古田

そうですね(笑)。だから「自分らしさ」にあまりとらわれず、ある程度運にも身を任せて、自分から見えているものをあるがままに書こう、という姿勢がいいように思います。それが結果的に「個性」になることが、しばしばあるんじゃないかと。

 

歴史や文脈をたどり、言葉の「奥行き」に目を向ける

「個性」と並んで『うにくえ』が大切にしている、「多様性」という言葉に関しても同じように考えてみたいです。「個性」のように、まずは類語と比較してみたいと思ったのですが……「多様性」の類語って、なんでしょう?

古田

個性に関しては、類語がすぐにいろいろと思いつくけれど、多様性の類語ってたぶんあまりないですよね。「多彩さ」とか、あとは「ダイバーシティ」や「バラエティ」といったカタカナ語ぐらいかな。

 

「多様な」という形容詞にしてみると、「いろいろな」とか「さまざまな」に置き換えられる気はするんですが。

古田

うん、だけど「多様性」という言葉の場合は、それとはちょっと違った独特のニュアンスが含まれていると思います。多様なものが多様なまま、ばらばらに放っておかれているということではなく、多様なものがお互いに関係し合うとか、お互いに認め合うというような……。

これはおそらく、もともとの言葉である「ダイバーシティ」に由来するニュアンスでしょう。そういう、歴史や文脈をすこしたどって見えてくるような、言葉の奥行きというものが重要だと僕は考えています。

 

歴史や文脈をたどって見えてくる奥行きに目を向ける……とても大事なことですね。そもそも、多様性ってよく使う言葉のようだけれど、「個性」と違って、日常生活のなかで実際に口にすることは意外と少ないのを感じます。「多様性を認め合おう」みたいなスローガンとして使われることはすごく多いけれど……。実生活であまり使わない言葉だからこそ、その「奥行き」に目を向ける機会が少ないというのもありそうです。

古田

生活であまり使わないというのはそのとおりで、多様性って、それとして実感が得にくい言葉なんですよね。個々の具体的なあり方や関係性から距離をとって、いわば解像度を下げて、全体をぼんやりと概観する言葉ですから。

 

多様性、という言葉の実感を得ていなくても、生活のなかではすでに多様な関係性を築いている可能性もある、ということでしょうか?

古田

ええ。だから多様性という言葉を実生活に反映させてとらえようとするなら、自分は多様な関係性の全体をつかんでいるんだ、という観点ではなくて、むしろ、自分がなにか見落としているものがあるんじゃないかとか、知らないうちに偏見を持っているんじゃないかとか、そういった観点になるのではないでしょうか。

 

ではやっぱりそれも、前編で言われていたように、言葉自体に着目しようとするのではなく、その言葉が使われている生活や社会をよく見る、ということにつながるのでしょうか?

古田

そうですね。「多様性」のように、言葉そのものの実感を得るのが難しい場合もありますから、その言葉がどう息づいているか、あるいはどうしてその言葉が必要になったのかを考えてみる、ということは大切だと思います。

 

「少女漫画が好きだとカミングアウトする」……は適切な使い方?

言葉が「どう息づいているか」を考える、というのは前編でも出たお話だと思うのですが、「どうしてその言葉が必要になったのか」を考えるというのは、具体的にはどういうことでしょう?

古田

たとえば、「カミングアウト」という言葉がありますよね。この言葉については、砂川 秀樹さんの『カミングアウト』(朝日新書、2018年)や、松岡 宗嗣さんの『あいつゲイだって』(柏書房、2021年)などに詳しいですが、もともと、性的なマイノリティの人たちが、自分の性的指向を公にせずにいる状態を「クローゼットに閉じこもる」ことにたとえていたことに由来しているそうです。

閉じられた空間から出ること、自分自身を解放していく、という意味で「カミング・アウト・オブ・ザ・クローゼット」という言葉が使われるようになり、「カミングアウト」は元々はその文脈の上に成り立っている。そうやって言葉の歴史をたどっていくことで、その言葉を必要としている人たちの存在も見えてくることがあります。

 

なるほど。そう考えると、言葉の歴史や文脈を一切踏まえない使い方をするのは、その言葉を切実に必要としている人に失礼な気がしますね。「カミングアウト」はまさに、全然違った使われ方になりつつありますが……。

古田

「少女漫画が好きだとカミングアウトする」というような使われ方が増えてきましたよね。もともとの文脈やその言葉が使われていた意味をたどることをしなくなると、言葉は空虚になったり、軽薄なものになったりしやすいんです。カタカナ語はとくに、どんな言葉にもくっつけやすいですから。「ダイバーシティ」や「インクルージョン」なども現に、その言葉を使う意味がよく検討されないままで多用されていますよね。

 

意味をよく考えず、「使いやすさ」だけに目を向けて多用されているカタカナ言葉は、おっしゃるとおりすごく多そうです。

古田

……ただ、こうやって「もともとの意味にも立ち返るべきだ」という話をしていると、「保守的だ」とか「語源にこだわりすぎ」と言われることがあります。けれど、僕が伝えたいのは、言葉の意味の変容や応用、展開をいっさい認めないということでは決してなくて、ときどきはそういう視点を持つことも非常に大切、ということなんです。

言葉が時代とともに変わっていくのはおもしろいことだけれど、だからといってどんな使われ方もオーケーとしてしまうと、他ならぬその言葉を必要としている人たち、その言葉にきわめて重要な意味を託している人たちから、その言葉を奪うことになってしまいかねない。それを避けるためには、言葉の意味や使い方について、その都度よく考えないといけないときがある、ということです。

 

今回のお話のなかで、古田さんが何度も「その都度考えるべき」「一般化はできない」という言葉を使われるのが印象的でした。どんな言葉に対しても、0か100かという方針は立てられないんだなと。

古田

そうですね。繰り返しになってしまうけれど、どうも気になるなと感じる言葉に出会うたびに、立ち止まってよく考えていくしかないと思うんです。言葉の使用をめぐって不具合や紛糾が起こっている場面に出くわしたときに、素通りをしてごまかさない、という姿勢ですね。言葉に「一般的な処方箋」というものはない。毎回立ち止まることは難しくても、ときどきは足を止めることが必要なはずです。いまは、それがあまりにもなされていないんじゃないかという危惧を僕は持っています。

 

[取材]小池 真幸、生湯葉 シホ、鷲尾 諒太郎 [文]生湯葉 シホ [撮影]須古 恵 [編集]小池 真幸