【前編】赤荻 瞳 × 千葉 雅也
若者が「花火のように生きた」時代から、何を持ち帰る?
ギャル雑誌編集長と哲学者が語る、日本ギャルカルチャー史
2022.01.20
「ギャル」という単語を聞いたことがない、という人は少ないでしょう。この言葉は1980年代に生まれ、1990年代後半から2000年代前半にはギャル・ギャル男たちが渋谷の街を、そしてメディアを通じてお茶の間を賑わせました。「開いた口が塞がらない」大人たちを尻目に、ガングロメイクに代表される個性的なファッションを生み出し、ギャルカルチャーは社会現象に。
その後、当時流行したファッションに身を包むギャルたちは減っていきましたが、まだその文化は生きています。なぜ、あれほどまでに個性的で、奇抜なカルチャーが生まれ、そのカルチャーはどのように発展していったのでしょうか。
「ギャルカルチャーに『自分らしく』生きるためのヒントがあるかもしれない!」。そんな想いからお話をうかがったのは、2014年に休刊となったギャル雑誌『egg』を復活させ、現在編集長を務める赤荻 瞳さんと、自らもギャル男ファッションを身にまとう哲学者・千葉 雅也さんです。ギャルカルチャーからは、日本社会の「これまで」と「いま」が見えてくる?
( POINT! )
- ギャルカルチャーを「内」と「外」から見てきた2人
- ギャルカルチャーの画期的な点は「女性主導」だったこと
- ターニングポイントは「経済の停滞」
- ギャルの条件は「自分が一番イケてる」と信じて疑わないこと
- 90年代は「後先を考えず、刹那的に生きること」が許されていた
- インターネットが奪った「逃げ場としてのストリート」
- SNSはギャルに将来の展望を授けた
- 社会をおおっていた「なんとかなる」空気が、ギャルカルチャーのベース
赤荻 瞳
1996年、埼玉県生まれ。
高校1年のときにギャルサークル(ギャルサー)で活動。高校中退後、2015年に広告制作会社に入社。2018年3月に『egg』をウェブで復刊させ、編集長に就任。ウェブ版『egg』を運営するエムアールエーの社長も務める。
千葉 雅也
1978年、栃木県生まれ。立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。
東京大学教養学部卒業。パリ第10大学および高等師範学校を経て、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論コース博士課程修了。博士(学術)。哲学/表象文化論を専攻。フランス現代思想の研究と、美術・文学・ファッションなどの批評を連関させて行う。著書に『動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社)、『勉強の哲学 来たるべきバカのために』(文藝春秋)、『デッドライン』『オーバーヒート』(共に新潮社)など、共著書に『言語が消滅する前に』(幻冬舎)などがある。
インサイダーとして体験したギャルカルチャー、アウトサイダーとして見たギャル男ファッション
まずは、赤荻さんがギャルカルチャーに親しむようになったきっかけを教えてください。
赤荻
生まれたときからですね(笑)。おしゃれ好きなお母さんの影響もあって、物心ついたころから「周りの子と一緒は嫌だ」「目立ちたい」といった、ギャルっぽいマインドは持っていました。中学生になるころには、ギャル雑誌を読むようになっていましたし、そのころには明確に「ギャルになりたい!」と思っていましたね。
私が中学生になった2000年代前半は、まだギャルが渋谷のストリートに集まっていたころで。埼玉県に住んでいたんですけど、電車賃だけ持ってよく渋谷に遊びに行っていました。そうして、高校生になってから渋谷のギャルサー(ギャルたちが作るサークルで、イベントなどを主催していた)に入って、そのサークルの総代表も務めて。
まさにギャルの王道ですね。その後、ギャル雑誌『egg』を復活させることに。
赤荻
そのサークルは高校3年生で引退して、ギャルサーの先輩のツテで広告代理店で働いていました。そして、20歳になったころ、2014年に休刊した『egg』をWeb版として復活させるプロジェクトが立ち上がったんです。
小さなころから読んでいた大好きな雑誌だったので、Webメディアの運営経験はありませんでしたが「編集長をやりたい!」と当時の社長に直談判して。社長が熱意を認めてくれて、編集長を務めることになり、2018年3月に『egg』を復活させました。
千葉さんはどのような経緯でギャル男文化に興味を持つようになったのでしょうか?
千葉
大学に入学して、東京に出てきたことがきっかけです。僕は栃木県の出身で、高校時代までも東京に遊びに来ることはあったのですが、基本的にはとても真面目ないわゆるガリ勉で、ギャルカルチャーには触れていなかった。
大学に入学したのは、1997年。進学先は東京大学だったのですが、東大って1,2年生のときに通うキャンパスが駒場というところにあって、渋谷からとても近い。だから、僕は東大のことを「日本一の渋谷系大学」と言っていて(笑)。
そんな環境だったので、渋谷を拠点に遊ぶようになりました。その後、哲学を専攻するようになり、アートやファッションを哲学の視点から考えるようになって、ギャル・ギャル男のファッションやカルチャーに興味を持つように。
興味を持った結果、ご自身もギャル男ファッションに身を包むようになったのですよね?
千葉
やっぱりモテたかったから。ただ、僕はゲイなので、女性ではなく男性にモテるためにギャル男ファッションを身にまとうようになりました。日焼けサロンに行くのにもかなり勇気が必要だったのですが、気づけば真っ黒(笑)。
ギャルカルチャーが映し出した「女性の強さ」
90年代後半といえば、ギャル・ギャル男文化の全盛期ですよね。
千葉
そうですね。「ガングロ」が流行したのが1998年ごろですし、いわゆるギャルカルチャーが最も盛り上がっていたころ。いまもセンター街にある「プリクラのメッカ」の前にはたくさんのギャル・ギャル男がたむろしていて、ちょっと離れたところからどんなファッションをしているのかをめちゃくちゃ細かくチェックしていました。
流行の最先端って、雑誌には載らないんだよね。本当にリアルタイムで流行しているものを知るためには、ストリートを見るしかない。
流行の細かな移り変わりはあったと思うのですが、当時のギャル・ギャル男ファッションの特徴はどのようなものだったのでしょうか。
千葉
「何あれ?」と思われることがかっこいいとされてましたよね。びっくりするくらい汚い靴を履くとか。
赤荻
汚い方がイケてる、みたいな風潮があったと聞いています。できるだけ変な目で見られたいというか。
千葉
そうだよね。それこそ、マンバ(ヤマンバギャル。ガングロメイクと奇抜なファッションが特徴)とか、ものすごかったですから。
なぜ、90年代の渋谷においてそのような文化が花開いたのでしょうか?
千葉
東京に根づくヤンキー文化の影響など、背後にある文脈はさまざまでしょう。ただ、文脈よりも大事なのは、女性主導のカルチャーであること。女性の「強さ」が前面に出た文化だったことが、ギャルカルチャーの画期的なところ。
ガングロメイクを施し、男を寄せ付けない雰囲気がありましたし、女性が「私たち最強」と言うような文化ってとても新鮮だった。ギャルカルチャーにおいては、男性は後追いだったわけだよね。ギャルにモテるために、彼女たちの真似をしてギャル男になった人が多いんじゃないかな?
“白”と「それっぽい服」の登場によって変化したギャルカルチャー
その後、ギャルカルチャーはどんな変遷をたどっていくのでしょう?
千葉
大きな変化があったのは、2007年から2008年ごろ。ギャル男の文脈で言えば、「ギャル汚」と呼ばれるくらい汚い格好をしていた人がいたのは、それくらいまで。そこからギャル男たちも、どんどん“白く”なっていった。この流れも、女性たちに対する後追いでしょう。
「黒ギャル」「白ギャル」という言葉ができたのがこのころだよね。90年代から2000年代前半くらいまでは、ギャルといえば“黒”だった。
赤荻
浜崎 あゆみさんの影響もあり、私が高校生だった2000年代前半から白ギャルが増えてきた記憶があります。携帯でさまざまな情報を得られる時代になっていたので、それぞれが好みのファッションを見つけて取り入れるようになり、黒ギャルは段々減っていましたね。ですが、一気に多様化が進んだのは、2008年前後だったような気がしています。
千葉
赤荻さんが高校生だったときもマンバはいたんですか?
赤荻
友達にいましたけど、おそらく最後のマンバじゃないですかね。
千葉
ラストサムライみたいな(笑)。
赤荻
そう、ラストマンバの親友がいたんです(笑)。
先程もありましたが、浜崎 あゆみさんのような芸能人の影響が大きい?
赤荻
キャバクラ嬢ブームも大きいでしょうね。若い世代がキャバクラ嬢に憧れるようになって、女子高校生の「なりたい職業ランキング」上位に入ることもあったくらいでしたから。
千葉
そういった流れを加速させたのが、2005年に創刊された『小悪魔ageha』だと思う。「姫ギャル」というジャンルを打ち出して、白ギャルが増えていった。
では、その頃には90年代後半に生まれた、いわゆる「ギャルカルチャー」の勢いは少しずつ落ちていった?
千葉
これは『ギャルとギャル男の文化人類学』の著者である荒井 悠介さんから聞いた話なのですが、ギャルカルチャーの衰退には若者の経済状況も関係しているだろうと。
というのも、2000年代半ばくらいまでは若者も経済的な余裕があった。だから、かつてのギャル男たちはドルチェ&ガッバーナとか、ちょっといいブランドを取り入れながら、それぞれのファッションをつくり上げていた。でも、2000年代中盤以降は、経済的な余裕がある若者はだんだんと減っていき、国内ブランドがつくる安価な「それっぽい服」で身を固めるようになっていった。
マルキュー(SHIBUYA109)の2号店であるキューツー(109-②。109MEN'Sを経て、現在はMAGNET by SHIBUYA109)に行けば、高いお金を払わずともパッケージ化された「それっぽい服」が買えるようになった。そうして、カルチャーを支えていた豊かなファッション性が失われていったんじゃないかな。
赤荻
女性側で言えば、やっぱり憧れの対象が多様化したことが大きいと思いますね。2000年代後半といえば、AKB48がデビューし、一大ムーブメントになりつつあったころですし、もう少し後にはK-POPが流行しましたよね。アイドルに憧れる子、K-POPにハマる子と趣味が細分化したことによって、ギャルカルチャーの勢いがなくなっていったと思います。
ギャルの条件は「自分が一番イケてると信じていること」
メイクや服装は違うとはいえ、90年代後半のヤマンバギャルも、現在の『egg』のモデルさんたちもギャルであることには変わりないですよね。つまり、ギャルは見た目に規定されるものではないと思ったのですが、共通する価値観があるのでしょうか?
赤荻
仲間や友達、絆を何よりも大事にすることはギャルの特徴ですよね。あと、一番大事なのは「自分が一番イケてる」と思うこと。ギャルになりきれない子って、「やっぱりちょっと恥ずかしい」と思っていたり、「本当にイケてると思われてるのかな」とどうしても周りからの評価が気になったりする子で。
私の先輩たちは、みんな「私が一番かわいいっしょ!」と思っていたし、そんな先輩のマインドに憧れていました。自分をイケてると信じて疑わないことが、イケてるギャルの条件かなって思いますね。
千葉
リスクと隣り合わせだとしても、まったく意に介さず、その瞬間を生きるのがギャル・ギャル男の生き方ですよね。ギャル・ギャル男という現象として生きる、とても刹那的で、花火のような存在だと思う。だから、ずっとは続けられない。みんないつかはギャル・ギャル男を卒業しなくてはならないときが来るんですよ。
90年代って、現在ほどすべてにおいて「社会的な正しさ」が求められていなかった時代で、社会全体がかなり雑だった。そんな時代だからこそ、「正しさ」や自らの後先も顧みず「雑かっこ良く」振る舞うことができた。すごくワイルドで、粋な庶民文化がまだ生きていた時代だったと思うんです。
いまの世代は90年代の若者のような生き方はできませんよね。そういった変化を指して、「昔はめちゃくちゃすぎた」と、いまさら90年代のカルチャーを悪く言う人もいますが、僕はそうは思わない。自分が通過してきたあの時代の、あの刹那性を反省する気持ちはありません。
なぜ、刹那的に生きることが難しくなったのでしょう?
千葉
直接的な原因は、インターネットの普及でしょう。何かやらかしてしまうと、すぐにインターネット上で炎上してしまうじゃないですか。こう言ってしまうと語弊があるかもしれませんが、かつては仮に学校で悪さをして、学校にいられなくなったとしても、ストリートに逃げられた。
でも、いまは逃げる場所がなくなってしまった。どこで何をしても、すぐにインターネットに情報をあげられ、叩かれてしまうわけだから、どこでも「正しく」おとなしくしなければならない。「逃げ場としてのストリート」があったからこそ、後先を考えない「雑かっこいい」ギャルカルチャーが生まれたのだと思います。そういう意味では、ギャルカルチャーはインターネット上からは生まれ得ない、対面のカルチャーなんですよ。
赤荻
インターネットの影響は大きいですよね。かつて「イケてる自分」を見せる場所はストリートでしたが、そういった遊び方をしていたのは私たちの世代が最後だと思います。後輩たちの遊び場であり、自分を見せる場はSNSになりました。だから、ギャルサーも次第に衰退していって、私の知る限りでは渋谷を拠点にしているギャルサーはもうありませんね。
いまの若い世代にとっての逃げ場って、どこになるんですかね?
赤荻
SNSの裏アカとか?
千葉
でも、裏アカのスクリーンショットを撮られてさらされることもあるからね。インターネットによって、逃げ場はなくなってしまったのかもしれない。
ギャルカルチャーの背景にある、時代の「楽観性」
赤荻さんは『egg』の編集長として、現役のギャルモデルさんたちとコミュニケーションを取ることが多いと思いますが、かつてのギャルとの違いを感じることはありますか?
赤荻
将来について考えていることですね。千葉さんの言う通り、先輩たちや私たちの世代って、将来のことなんてまったく考えていなかったんですよ。でも、いまの子たちは「ギャルモデルとして有名になって、自分のブランドを立ち上げたい」といったような目標がある。
それは、SNSが普及したことによって、すべての発信が仕事につながるようになったからだと思っていて。SNSをベースに仕事をすることが当たり前になって、そこで得たものを将来に活かす方法も考えられるようになったんじゃないですかね。
千葉
若いころなんて何も考えてなかったけどな。街で遊んで、好きな勉強をして。その勉強というのも「将来のために」ではなく、とにかく好きだからやっていただけで。将来を設計する、なんて考えたこともなかった。
そんなあり方に寛容というか、むしろ歓迎された時代だったんだよね。というのも、僕が大学生だった90年代後半って、それまで当たり前とされていた「会社に就職して、定年まで勤めあげる」といった働き方に対する疑問を口にする人が多くなっていたころ。
90年前後にはフリーターという言葉が登場して、「もっと自由に生きようぜ」という雰囲気があった。その後、それでも正社員になることを選んだ人と、自由な生き方を求めて非正規雇用を選んだ人の間で格差が広がることになり、いまも続く問題を生むわけだけど、当時はみんな楽観的だった。
なんとかなる、と思えた時代だった?
千葉
そう。僕と同世代である1970年〜1982年生まれはロストジェネレーション世代、つまり「失われた世代」と言われていて、バブル崩壊の影響を受け、まともに就職できなかった人が多い世代なんです。いまでも経済的に苦労している人が多いと言われている世代なのですが、若いころは「就職しなくてもなんとかなる」と思えていた。
90年代後半の初期ギャルカルチャーの中心にいたのは、そんなロスジェネ世代の人たち。つまり、ギャルカルチャーは、将来を楽観視できた時代の空気と、強く結びついた文化だったわけです。
ギャルカルチャーの誕生から、その変遷と衰退までをたどってきた前編はここまで。後編では、ギャルカルチャーを通して現在の社会の中で自分らしく生きるための方法を探ります。かつてのギャル・ギャル男のように個性を発揮しながら、「自分が一番イケてると信じて疑わない」ためには? 後編もお楽しみに!
[取材・文]鷲尾 諒太郎 [撮影]須古 恵 [編集]小池 真幸