「学ぼう」だけでは解決しない?

綿野さんは『みんな政治でバカになる』を書かれています。「バカ」って言葉を使うと怒られませんか?

綿野

はい、すみません!怒られました!

「権威の後ろ盾もなく、肩書きもない在野の書き手が政治の本を書いても誰も関心を持ってくれんやろ…やはりアテンション・エコノミーを利用するしかない」と考えました。今だったら違うタイトルをつけるかもです…。

 

タイトルだけ見て反射的に怒ったってことですよね。

綿野

「政治に参加する人をバカにするのか!」と怒られましたね。ただ、この本は「人間は政治に関わると、どんな賢い人でも愚かになる。みんなバカなのだ」ということを書いている本なんですよね。

それがぼくの力不足で、どうも「愚かな大衆」や「愚民論」だと思われてしまった。先日この本について別の取材も受けたのですが、「今の自民党政権を支持するのは愚民なんだ」「参政党支持者は愚かな大衆だ」というふうに記者の方は受け取ってました。

でも、対立する政党の支持者を無知蒙昧とみなすのは非常に悪い傾向だと思います。そうではなくて、ここで今えらそうに話しているぼくも含めて、みんなバカで無知なんです。

 

「政治に参加する人をバカにするな!」という批判にも、「みんな政治を知らないのだから、学べばわかるはず。同意できるはず」がありそうです。

綿野

そうなんです。多くの人が政治的に無知なのは、政治に関心を持てないからです。だから「政治にもっと関心を持ちましょう」とよく言われます。ただ、政治について学ぶことは大事なんですが、ここには落とし穴があって…「政治ファン」になるとめっちゃやばいんです。

 

政治ファン?

綿野

サッカーのフーリガンや野球チームの狂信的なファンがいますよね。あれの政治版が「政治ファン」。自分が支持する政党が勝つこと、敵対する政党を打ち負かすことに喜びを感じる人たちです。政治ファンは政治的な知識を得ることに熱心なんですが、間違った知識をたくわえやすい。たとえば、陰謀論を唱える人ってめっちゃ知識があって勉強しているでしょう?

 

「認知バイアス」×「政治的無知」=「バカの二乗」

そうですね。私たちが陥りやすい愚かさって、計算間違いや「〇〇について知らない」といった単純なものではない気がします。どんなものでしょうか。

綿野

この本では「認知バイアス」と「政治的無知」という2つの「バカ」を扱っています。この二つのバカが重なるとバカの二乗になって大変なことになる。

認知バイアスとは、簡単に言うと思考の癖。こうした認知バイアスは、どれだけ知能が高い人でも引っかかる可能性がある。

それから政治的無知です。今の社会では情報は簡単に手に入る。にもかかわらず、私たちは政治に関する知識が少ない。これは日本だけでなく、アメリカなどいろんな民主主義の国で見られる傾向です。
 
たとえば…現在の農林水産大臣の名前ってわかりますか?

 

わからないです。

綿野

僕もテレビで顔は見たことあるんですけど、わからないですね(笑)。

政治的無知の原因は人間が愚かだからではありません。日々の生活が忙しすぎて、政治の情報を得る機会がない。また政治システムが複雑になっているのも原因だと考えられます。

もちろん、政治的な知識がない人でも清き一票が平等に与えられる。それが民主主義です。しかし、正しい政治的な判断をするには、政治的な知識が必要です。たとえばお金の知識がない人が安易に投資に手を出せば、詐欺師に引っかかるでしょ?同じように政治の知識がない人は、とんでもない政治家に引っかかる可能性がある。

だからやっぱり政治的知識が必要ですが、「知ろう」「学ぼう」と思ったときに認知バイアスが強く働いてしまうのが厄介なんです。

 

情報を得る手段は増えていても、処理しなくてはいけない情報も増えている問題もありますよね。でも、学ぼうとして逆に厄介なことになるとは?

綿野

認知バイアスの1つに「確証バイアス」があります。自分の信じている考えに合致する情報ばかりを集めて、都合の悪い情報を無視する傾向です。「政治ファン」が自分の都合の良い情報ばかり集めて、陰謀論にのめり込んでしまうのは、このバイアスが原因です。

しかも今や、見たい情報だけが見える情報環境が、この傾向をさらに加速させる。昔なら「今日の大相撲の結果どうだろう?」とテレビをつけると、興味のない政治ニュースが目に入った。でも、インターネットではニュース記事に自分でアクセスする。自分好みの情報に囲まれるエコーチェンバーになる。

 

勝たなくていい。相対化する

確証バイアスがあるから間違っていたとしても考えを強化してしまうのに、エコーチェンバー現象でさらに加速してしまうと。そう聞くと「学ばないほうがいい?」となってしまいそうですが、問題は「学ぶこと」そのものではなさそうです。
そもそも、綿野さんの言う「バカになっている」とはどのような状態でしょう。

綿野

自分の考えを相対化できないってことでしょうね。全知全能の人はいない。自分も含めてみんな愚かさを抱えているけれど、その愚かさに気づきたくない風潮が広がっているのでは。自分のやっていること・言っていることをメタ視点から見ることができない。

 

「自分が間違っているかも」「自分は間違いやすい存在だ」ということを、認めづらくなっている状態ですね。知性は生存のための重要ツールなので、「持っていない」と言われるとまずカチンとくるのかなと思います。

綿野

たぶん自分の間違いを認められない人はプライドが高いんだと思います。

 

人間がですか?「自分はバカじゃない」と思いたいとか。

綿野

他人に見下されたくないという感覚。いまのSNSは、仕事・結婚・家族・ルックス・学歴などすぐに他人と比較できてしまう。あとは、他人よりも道徳的に優れていることを示す「良い人だぜ」競争も起きやすいですね。

 

1人で考えると偏り、何かを支持して考えても偏る。かといって意見が違う人と対話すると自分の正しさを主張したくなってまた偏ってしまう…。

綿野

みんなバカだから、みんな偏っている。それはしょうがない。ただ、自分の偏りに気づく機会は増やせると思うんですよ。他人の言葉に触れることが大事。でも、プライドが高いと難しい。自分と違う意見の人が許せなくなって、ついつい「論破」したくなる(笑)。

でも、ぼくは、論破するよりも論破される快感のほうが大事だと思っているんです。「だめ連」(*1)という左翼グループがあって、「お金がない」「働けない」「成功できない」といった「だめ」をこじらせないことを目標としていた。で、その人たちいわく、プライドが高いと「だめ」をコンプレックスにして悩んでしまうのだという。

自分たちのプライドを肥大化しないために、実践していたのが「交流」なんです。だめ連の人たちは他の運動団体とよく「交流」していたんですね。集会やデモに押しかけて、飲み会に参加してとにかく話す。そして、論破されることを楽しんでいたそうなんです。

自分1人でいると、どうしてもくだらないプライドがむくむく育ってしまう。自分の目の前の世界が絶対に見えてしまう。でも、他人に論破されると「ああ、自分が見ていた世界は狭い世界だったんだなあ」と相対化されて、これまで悩んでいた「だめ」なんてどうでもよくなるのだ、と。

まあ、ぼくもプライドが高いので、その境地にはなかなか達せられないのですが(笑)、論破されることは自分の理想です。

 

その境地に達せられないのは、社会的評価などから完全には自由になれないということですか?

綿野

人間はどうも自分の評判を気にする傾向があるようです。周りの人に流されやすく、同調圧力に弱い。それだけでなく、所属するコミュニティや集団の思想に影響を受けやすいんですね。

昔大学には、1人暮らしを始めたばかりの孤独な学生を囲い込んで洗脳してしまうカルトやセクトの偽装サークルがありました。今でもあるのかな?あれと同じで、周囲の人間関係を固められると、人間の考えはコロっと変わってしまうんです。

特に政治ではコミュニティや集団を形成します。人間の思考に与える影響力の大きさが経験的に知られているからです。

あなたが自分の意見を話しているつもりでも、実は集団の思想を受け売りしているだけかもしれない。このことに強く注意する必要があります。

とはいっても、人間は1人では生きられません。どこかの集団やコミュニティの中でしか生きていけない。そのとき重要になるのが、やはり相対化です。昨今は「相対主義」の評判が悪いのですが、自分の所属する集団やコミュニティの考えを絶対視せずに、相対化できる視点を常に持つことが重要かなと思います。

 

学んでいるつもりでも、なぜか偏った考えになってしまう構造について伺った前編はここまで。後編では、「話せばわかる」って本当?など引き続き綿野さんと考えます。お楽しみに。

綿野さんの著書に『みんな政治でバカになる』(晶文社)。認知科学の「二重過程理論」をもとに、世界で起きている政治的な分断と対立と混乱の図式を描く長編評論。
※1:
神長恒一さんとぺぺ長谷川さんによって結成されたグループ。労働や消費中心でない生き方を実践。

[取材・文]樋口 かおる [撮影]工藤 真衣子