人工物への「フランケンシュタイン・コンプレックス」

「AIに仕事を奪われる」「友だちよりもAIを信頼する(*1)」といった話をよく聞くようになりました。

吉岡

「AIと人間」の対立があるということですよね。そもそも、その図式は本当に正しいでしょうか。僕は疑いを持っています。

 

人間の存在はAIに代替されてしまうのではないでしょうか?2022年にOpenAI社がChatGPTをリリースしてから、AI利用の広まり方が急過ぎて怖いです。

吉岡

人工物への恐怖は特に新しいものではないんですよね。これはAIについての知識があるかどうかには関わらず、どんな物語で考えるかという問題なんです。

 

物語?

吉岡

人工知能は「フランケンシュタイン」の比喩で語られることがあります。「フランケンシュタイン」は、メアリ・シェリー作の19世紀の小説『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』に登場する博士の名前。博士のつくった怪物に名前はないし、原作ではどんな姿をしてるかはっきり書かれてないんです。

怪物は無垢な心を持って生まれ、なおかつ非常に賢い。納屋みたいなところの壁の割れ目からお父さんが娘に言葉を教えてるのを聞いて、言葉を覚えます。誰からも教えられてないのに、ミルトンなどの古典文学から当時流行っていた『若きウェルテルの悩み』まで読みこなせる知性を自分で身につけるところは、AIっぽいですよね。

でも、姿形が醜いがゆえに人間に恐れられてしまう。2度と人間の目に触れないところに住むからパートナーをつくってくれと頼むけど、パートナーをつくると子どもが生まれるかもしれないと、博士は不安になるんですね。これがいわゆる「フランケンシュタイン・コンプレックス」の核心になることです。

 

フランケンシュタイン・コンプレックスとは、怪物のような人工物をつくりたいけれども、その人工物によって滅ぼされるのではないかと恐れる状態?

吉岡

そうですね。フランケンシュタインの物語は、我々がコンピュータのような人工物に対して持つ不安を全部原型として含んでいます。増殖して子孫が襲ってくるとか、制御不能になるとか。生殖と制度の問題ですね。西洋圏では特に、人工物に対する不安や恐怖を象徴するものとして「フランケンシュタイン」という言葉が使われています。

 

情報処理の複雑さが、心になる?

日本ではどうなんでしょう。

吉岡

日本はそれほどでもないんですよね。『怪物くん』に出てくる「フランケン」も全然怖くない。人工物に対する態度には文化差があって、キリスト教圏というか、一新教の世界ではフランケンシュタイン・コンプレックスが強いです。アジアはそれほどでもないですね。むしろ好きなんじゃないかな。

 

物が突然喋り出すような昔話や落語は、今ちょっと思いつきません。

吉岡

その反面、自然物と人間との距離が近いんですよ。日本や東アジアの文化で、動物が人間になるのはけっこう簡単なんですよね。

 

そういえば、動物に心があるとする考え方は他の地域では受け入れられにくいと聞いたことがあります。

吉岡

それはAIの問題に直結することでもあるんです。近代西欧文化圏では、心というものを「知能」と関係付けるんですよ。

 

知能が低い生物には心がないということですか?

吉岡

神経組織による情報処理の複雑さみたいなものがある段階を超えると心が生まれる、みたいな考え方ですね。人間の心をモデルにして考えたら、人間に似てるものほど心があることになります。猿にはちょっと心があるかもしれないとか。人間中心主義なんですね。そうすると、AIは人間よりも複雑な情報処理を高速に行うので、心があるのかもって思われてしまう。そういう方向に導かれやすいんですよ。

非西洋圏の人たちが心と呼んでいるものは、必ずしも情報処理の複雑さではありません。でもAIは近代科学の中から生まれてきたものなので、枠組みとしては近代西洋的な世界観のなかにあると思います。

 

問い直される人間の営み

AIのような人工物に「人間が代替されてしまう」という物語は、ずっと続いてきたものなんですね。

吉岡

この物語は、なかなかなくなりません。みんなが好きな物語なので、これに従った小説や映画や記事が求められますから、お金が儲かるんですね。お金が儲かるのでますます「AIと人間」の図式は増殖して、とめどがないと。

それをAIの側から見たら、いい迷惑かもしれません。元々人間と戦おうとも人間にとって代わろうともしていないのに、人間が勝手に対決の図式をつくり出して、怖がったり喜んだりしてるのではないかと思うんです。

『AIを美学する』にも書いたように、AIとは何かというと人間の敵ではなく、むしろ人間を映す鏡であると。そういうイメージで捉えています。

 
吉岡さんの著書『AIを美学する:なぜ人工知能は「不気味」なのか』(平凡社新書)。ゾンビ、カント、SF映画、実存主義などの視点から「AIとは何か」を問いかける。

AIに対する怖さがあるとしたら、それも人間へのものだと。

吉岡

そう、だからといって安心はできません。人間がAIに取って代わられるようなことと、異質の危険が存在するのはたしかです。戦争など破壊的な目的のために使われると恐ろしいことになるし、社会や政治のメカニズムに導入されて混乱が起こりつつあります。大学が当たり前のものとしてきたシステムも、実質掘り崩されているんですね。

 

どんなことですか?

吉岡

たとえば、大学や大学院の成績評価など無意味になってきてますね。 インターネットが一般化した時代にも、Wikipediaをコピペしてレポートを出すようなことは問題視されました。でも、それはコピペなのですぐに見抜けるんですね。

AIならプロンプト次第で無限のバリエーションが生成できるから、判別できません。今はまだ少し不自然さのようなものを感知できたとしても、すぐに乗り越えられます。「最後は人間の鑑識眼や判断力が大事だ」みたいなことを言っても、無駄なんですよ。対抗手段としては、学生がChatGPTで書いたレポートをChatGPTが採点することくらい。でも機械が書いたものを機械が採点するんだったら、もう全部任せておけばいいということになります。

 

そこにどう人間が介在したらいいのか、わからないですね。

吉岡

成績だけでなく、講義もですね。1990年代以降大学の改革がすすんで、「何回目は何をします」ということを決めて、学生レベルに合わせてわかりやすいよう整理して知識を提供することが「いい講義」だということになりました。でもこうした「いい講義」は、AIのほうがずっと得意なんですよ。今はまだ正確さに不安がありますが、今の基準でいい講義・教育とされているものはAIのほうが適しているし、迅速です。

AIというものは、人間がこれまで築き上げてきた大事な社会構造を壊す恐ろしいものだというふうにも見えます。でも実は、それを通じて人間に「あなたたちが今までやってきたことは何なんですか」と問いかけている状況でもあるんですね。これは教育だけではなく、あらゆる場所で起こっていることです。

 

「AIと人間」の対立があるかのような恐怖が生まれた理由について伺った前編はここまで。後編ではAIとは異なる人間の思考について、また「AIを美学するとは?」を伺います。お楽しみに。

[取材・文]樋口 かおる [撮影]木村 充宏