【後編】藤田 直哉
分断を煽るのは誰?感情に支配されるインターネット
情動を利用したアイデンティティ・ポリティクス
2024.09.26
自由に個人の趣味を発表したり、異なる意見も交換できる場だったインターネット。いつのまにかカテゴリーにまとめられて「いいね」を競い合い、別のカテゴリーと対立する場になってしまっています。私たちが分断され、アルゴリズムによって常に情動を刺激されるようになった背景には何があるのでしょうか。
前編に続き、著書『ネット政治=文化論』が話題の日本映画大学准教授、藤田直哉さんにお話を伺います。
社会不安が増すなか、人々を「分ける」ことが、問題から目を逸らし仮想敵を生み出す効果を持つといいます。次々にコンテンツが生み出され注意を奪い続けるインターネットは、気づかぬうちに私たちの存在そのものまで変えてしまっている?
( POINT! )
- 陰謀論とナラティブの時代
- 弱者男性は作られたカテゴリー
- 敗北感があると陰謀論を信じやすくなる
- インターネットでは集合知が機能していない
- 20世紀的な人間は減少
- 世界の問題につながる回路を増やす
藤田 直哉
批評家、日本映画大学准教授。1983年、札幌生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。東京工業大学社会理工学研究科価値システム専攻修了。博士(学術)。著書に『虚構内存在』『シン・ゴジラ論』『攻殻機動隊論』『新海誠論』(作品社)、『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)、『娯楽としての炎上』(南雲堂)、『シン・エヴァンゲリオン論』(河出書房新社)、『ゲームが教える世界の論点』(集英社)、『現代ネット政治=文化論: AI、オルタナ右翼、ミソジニー、ゲーム、陰謀論、アイデンティティ』(作品社)、共編著に『3・11の未来――日本・SF・創造力』(作品社)、『地域アート――美学/制度/日本』(堀之内出版)、『東日本大震災後文学論』(南雲堂)などがある。朝日新聞にて「ネット方面見聞録」連載中。
「政治とは敵と味方を名指して線を引くこと」
「弱者男性」のような言葉が生まれる背景には、人々をアイデンティティでまとめて憎悪や不遇感を組織する戦略があるのではないかと前編で伺いました。
藤田
ドイツの政治学者シュミットは、「政治とは敵と味方を名指して線を引くこと」だと言っています。
「分ける」ということですね。グループが分かれると敵と味方を認識しやすくなります。
藤田
「あいつらが敵で、倒せばうまくいく。我々は仲間だ」というカテゴリを作って、人々を動員するということですね。線引きは、国家・民族・階級・ジェンダーなど、様々です。景気が停滞するなか格差が拡大しているので、「自分は相対的に不遇である」と感じる人が増えています。現代の排外主義には「我々の福祉が奪われている」という感覚がベースにあるといわれていて、ゼロサム思考なんですね。
自分たちの生活が苦しいのは生活保護を不正に需給している人のせいだとか、外から来た移民への福祉が我々の富を奪っているといった考えで、福祉ショービニズムと呼ばれます。最近のアイデンティティ・ポリティクスの時代は陰謀論の時代でもあり、そこでナラティブが「兵器」として活用されているんですよ。
ストーリーとしての意味づけによって人々の分断や政治的思考が生み出されている可能性があるということですよね。そうした動きは昔からあるのでは?
藤田
人類が集団を形成しはじめたときからそうだったかもしれません。しかし、広範に人々に影響を与えるメディアの誕生が、質的に大きな変化をもたらしました。20世紀の例でいえば、ナチス・ドイツはメディアをうまく使っていました。特にラジオで発信している人と心がつながったような感覚が生まれることを、共同体の感覚共有に利用したといわれています。同様にイスラムの過激派は、インターネットを使ってテロリストを育成しています。
だいたい、疎外感を覚えて社会的不遇な状態にある人がターゲットになり、過激思想に染められています。アメリカでは、不遇を感じている男性たちが「悪いのは女性たち」と思い込まされることで多くの銃乱射事件も発生しています。日本も例外ではなく、「弱者男性」も、動員のために意図的に作られたカテゴリーのひとつのように見えます。
インターネットでは集合知が機能していない
不満を抱いているところに「原因は自分たち以外にある」と言われたら、飛びつきたくなりますね。
藤田
世界全体で格差が拡大し没落感と脅威の感覚を抱く人が増えている状況があるから、リベラル・エスタブリッシュメントの支配やディープステート(闇の政府)の存在といった陰謀論も流行るのだと思います。
「自分が負けている」と感じると陰謀論を信じやすくなるという統計的な傾向があります。でも、自分は無力ではなく仲間と世界のために戦う優れた存在だとすると、意識のなかで状況を逆転できるんです。よく使われるのは「自分がこういう苦境にあるのは、自分のせいではなく、あいつらのせいだ。あいつらを打倒すると、解放された幸せなユートピアが訪れる」みたいな物語ですね。その物語を欲する気持ちは私にもよくわかりますが、実際には誤った認識であることが多いです。そして、精神的なものや就職氷河期などの影響で、実際にケアを必要とする「弱者」も混じっており、その苦しみ自体は本物なので、問題は複雑です。
インターネットは個人が自由に発信できる場でもあります。陰謀論が広まったとしても、集合知によって軌道修正されないのでしょうか?
藤田
初期のインターネットは、専門性を持った人たちが知識をシェアする利他的な贈与経済的な原理で動いていたところがあります。しかし、多くの人が参加したことで必ずしも正確でない情報が感情的に拡散される場となってしまっていました。ネットワーク論などを応用した集合知の研究があり、集合知が機能する条件がわかったのですが、シンプルにいうと多様な人がよく考えて独立した意見を述べると集合知は機能する。しかし、あまり考えていない人がいっぱいいる、同調圧力のある場だと有益な結果を出さないことがわかりました。ポピュリズムが集合知なので「正しい」と安易にはいえないんです。
多くの人が参加するようになって、広告料などお金を稼げる場にもなりましたよね。正しくなくても感動的であればたくさん見られて、収益につながるという現状があります。
藤田
2005年には2ちゃんねる発のキャラクターが「のまネコ」という商用キャラクターに利用されて炎上したし、初期のインターネットにはビジネスやお金自体を嫌う風潮がありました。「嫌儲」という言葉もありましたしね。悪いものも含めて自由にのびのびやれていたのに、いかにアクセスを稼いでお金にするかが重視されるようになっています。
アクセスを稼ぐためにあおったりウケているのと同じパターンのものをたくさん作ったりするようになって、多様性が失われています。インターネット上の人間の行動がビッグデータ解析されて、いかに効率よく収奪するかみたいな世界になってるのが今でしょうね。
情動中心で動く社会が、アイデンティティ・ポリティクスに利用される
SNSでの炎上のスピード感からも、情動と共感が強い時代だと感じます。個人の意思でそこに抗うのは難しそうです。
藤田
IT企業などは脳神経科学のラボを作って研究してますから、なかなか個人の意志だけで対抗するのは難しいかと思います。短文やショート動画で感情をあおったほうが人々が反応して閲覧数が稼げるので、そういうコンテンツが増えて。脳は可塑的ですから、私たちも脊髄反射的といいますか、情動を中心に判断したり行動するようになっていきますよね。アイデンティティ・ポリティクスは、SNSがもたらしたこのような変化を前提にした戦略だと思います。
以前は理性的に考えて討議して問題解決を試みるような民主主義が理想とされていたけれど、インターネットが出てきて民衆が自分で意見を発信できるようになって、意見の表明が民主化されたわけです。そうするとエリートなど一部の人が討議的理性で複雑に考えたものよりも、みんなの直感や感情のほうが反映されるべきであり、それこそ直接民主主義だという考えになりやすくなるのは、メディア構造からの帰結かなとも思います。
とはいえ集合知も効かない状態で、適切な選択ができるのでしょうか。
藤田
何が「適切」なのかをどう判断するのかは難しいのですが、メディアの構造と民主主義のあり方は相関していて、メディアが変わると人々のマインドも変化します。私たちはまだ20世紀的な人間観を前提とした制度や価値観を持っているけれども、実は20世紀的な人間はもうかなり減っていると考えた方がいいのかもしれません。そうすると、判断基準の根拠となる価値観自体も更新しなければいけないですから。
人が変化したということですか?
藤田
メディア論で有名なマーシャル・マクルーハンは、『グーテンベルグの銀河系』で「近代の人間の内面は活版印刷による長編小説を読むことで形成される」という旨の発言をしています。長編小説を読む時、止まって黙読しますよね。それによって表面に現れない心や内面があるという考えになり、内省が生まれ(反省こそが「近代」の条件です)、近代的自我が形成される。その自分を反省的に問い直し続ける自我と、沈思黙考によって養われた理性的思考による深い思考を前提に、20世紀の民主主義はあったと思うんですよ。
インターネットの時代になって、そんなふうに文字を読むことよりも、自分が好きで気持ちいい情報を一瞬で受け取ることが優先されるようになりました。そうなると、人間が理性的で討議的な主体であることを前提とした理論や制度は、あまり現実に即さないということになります。「民主主義の危機」とは、本質的にはそういうことだと思っています。
自由や個性が尊重される社会のために
人生や社会の意思決定をすべてAIに委ねるディストピアを連想しました。
藤田
20世紀的な人間観ではディストピアなんですが、若い人たちに聞くと、「そのほうがいい」「それはユートピアだ」という声もあります。たとえば伊藤計劃さんの『ハーモニー』というSF小説では、みんなが幸福であるために個性や意識が制限され、AIなどに人間関係が制御され、摩擦がなくなり調和した社会が描かれていますが、「そんな社会になってほしい」と言うんです。「自由がなくなっていいのか」と僕は思ってしまうんですが、どうも自由のプライオリティがそんなに高くないような感じがします。
AI時代以降には、中間層はますます没落し、「無用階級」が増えるが、その人たちが不遇感や無力感を高めて社会的な反乱をしてしまうことを阻止するために、人間に本当には必要のない仕事を与えて人生の意義や存在価値を錯覚してもらうべきだという議論も実際にはじまっていて、中国のGoogleの元CEOがそういう本を出しています。
AIを管理する人間と管理される人間の二極化が起きるのでしょうか?
藤田
そうなる可能性が高いといわれていますね。そうなってくると「頑張って勉強して自分を鍛えてタフな判断して」みたいなエリートと、「できるだけ考えたくない」みたいな人たちに分化して、分断と対立の状況がよりひどくなると思うんですよ。現状を見ていると、民主主義もたぶん機能しない、国家や社会の持続可能性も怪しくなる感じがします。じゃあどういうシステム、価値観、統治、産業構造にすべきなのかを本当は真面目に総合的に考えなければいけないんだと思うんです。
インターネットもAIも、影響についてあまり検証されずに広く使われるようになっていますね。
藤田
ロシア・中国、ヨーロッパ、アメリカの順に統制が強く、日本がどの道を選ぶのかがいままさに議論されているところですね。テレビや映画などのオールドメディアに比べ新しい技術にはまだあまり規制がなく、安易に使われて社会がめちゃくちゃになったというのが、現状だと思います。これらを適切にコントロールするために、企業の自由を少し制限せざるを得ない時期が来ているのではないでしょうか。
そんな現状のなかで、コンテンツにできることはあるでしょうか。
藤田
知ることを促す力がコンテンツにはあります。社会はあまりにも高度で複雑で抽象的で、実感として理解しにくいものです。SNSやスマホなども、あまりに当たり前に接しているから、自然化してしまっていると思います。それらをわかりやすいモデルで提示し、理解させる力がコンテンツにはあるんですよ。自分が生きている社会、世界、状況を、それらを通して知ることは、人々を自由に、解放することになります。
今の自分が「自分自身の考え」と思っているようなものも、SNSなどで流れてきて「持たされている」だけのもので、俯瞰して見れば集団や部族に同一化してしまっているだけというケースも多いです。仕組みを皆が知って意識化し、行動すれば、同調圧力や息苦しさはもっと和らぐし、一人ひとりの個性や自分らしさを尊重する社会にも向かっていけるはずだと思います。
[取材・文]樋口 かおる [撮影]工藤 真衣子