「所有」の欲求は自然な感情?

前編で、プナンは所有したり貯めたりすることがないと聞きました。ルールだから仕方なくそうしているのか、元々そういう感覚を持っているのでしょうか。

奥野

私はプナンの子どもに飴玉を20個ぐらい渡したことがあります。その時、その子は最初ひとり占めをしたんですよ。自分のものとして所有したい気持ちは、やはり人間の本質として誰もが持っているのだと思います。

でも、そこにはお兄ちゃんと妹もいて欲しそうに見ていました。そこへお母さんが来て、分け与えるように促したんですね。それでその子はそこにいた兄妹と均等に飴玉を分け合ったんです。

 

飴玉がたくさんあれば日本でも「分けようね」と言うかもしれませんが、1つしかないおもちゃであればその子のものだと認めたうえで「貸してあげて」と言うことが多いですね。

奥野

兄妹にはまた同じようなものを買い与えることもありますよね。そうすると、個人所有の観念そのものが発達します。プナンはそうではなく、その観念を削いでいくんです。ひとり占めしたい気持ちは持っているけれど、そうはせず分け与えることを社会規範としていくのです。それはある種のダブルスタンダードになりますが、独占したいという欲求を抑えて配りながら生きていくことで、みんなで生き残っていきましょうと。その考え方を全面的に行き渡らせているのがプナンの社会なんですよね。

 

私たちの社会では自然な感情とされる「所有したい」という欲求を、プナンでは塗り替えていく工程があるんですよね。

奥野

つまり、日本のほうが自然なんです。所有欲というものを肯定して、個人所有の概念そのものを土台としながら生きているわけです。

個人的に所有するのは物だけではなく知能や知識、技能もありますね。高校や大学に入って専門性を身につけたら、それは個人のものです。個人の知識や技能を高めることで専門的な技能集団を作り上げているのが私たちの社会であって、プナンはそうじゃないんです。自然ではなく最初にコントロールして、平等主義的な社会を維持しているわけです。

 
プナンの女の子(photo/奥野克巳氏提供)。

物だけでなく知識や技能も個人所有しない

プナンでは技能についても個人所有の概念がないんですね。でも狩猟で活躍する人はいるだろうし、そもそも狩りに行かない人もいます。そこで誰かが評価されることもないと。

奥野

そうです。それは狩猟民の様々な社会で報告されています。アフリカのブッシュマンの社会では、獲物が大きかったとしても「なんでお前はこんなちっぽけなものしかとれないんだ」と悪口を言います。これには、その人が「俺が大きな獲物をとった」と自惚れることを未然に防ぐという理由が考えられます。それが平等主義を支える習慣になっているんですね。

プナンでは少し違いますが、大きなイノシシをとった時も「全然ちっぽけだった」と言います。そしてキャンプに6家族住んでいたら、6家族で均分に分配します。リーダーは多めにとか、とってきた人にいい部位をとかもありません。重みづけをしないことは、平等主義社会をやっていくうえでとても重要な原理なんです。

 

なかにはそういう文化に反発して「自分は特別な技能を得たい」という人もいますか?

奥野

いや、いないですね。それが面白いところですが、私たちがそうなるだろうと思うのはある種のとらわれがあるからだし、彼らもやはり彼らの原理にとらわれているんですよね。学校は何かを学ぶところだとも思っていないし、技能や技術をひとり占めして優秀なハンターになるという考えもないんですよね。

 

上下関係がないんですね。

奥野

ないですね。平等です。

 
とれた魚を均分している(photo/奥野克巳氏提供)。

「ありがとう」と「ごめんなさい」を持たないプナン

「ありがとう」という言葉もないそうですね。それも平等だからでしょうか?

奥野

そうですね。「ありがとう」という言葉はないですし、感謝の心もないですね。感謝の心がないのは、いわゆる「シェアリング」だから。みんなで共有して個人所有が発生しないからですね。その場で分かち合うということが優先されていて、その精神が重要なんです。ほとんど使わないですが、言葉としては「いい心がけだ」という表現があります。個人が持ってるものの所有者がAからBに変わって感謝の言葉が述べられるということはありません。

 

所有者が変わるのは当たり前だからですか?

奥野

所有者が変わる変わらないというよりも、彼らの伝統的な生活においては、森の中に入っていってすべての財がまかなわれるわけですよね。動物、それから果物を持ち帰ってきたら基本的にはその時に全部配ってしまうんです。

配ってしまうとですね、それはもう配るという精神性そのものがあるだけで、誰かのものになるわけではないです。だから誰かのものになって交換されるということもないんです。

 

「ありがとう」という言葉には、相手のものを自分がもらって悪いという気持ちが含まれると思います。それはなくて、だから「ごめんなさい」もないんですよね。

奥野

つながってるかもしれません。「ごめんなさい」もないですね。反省しないので、謝罪もありません。たとえば私が持ち込んだバイクをよく借りに来る人がいて、バイクが壊れてるのに何も言わずに返してくることがしょっちゅうありました。私は怒りに震えたんですけど、彼らにとっては壊れたのには何か原因があったんでしょうが、その責任をとる人がいないんです。

 

私だったら「自分が借りているタイミングではなく別の時に壊れたらよかったのに」と考えます。

奥野

そういうふうには考えませんね。というのは、彼らの時間軸は長くありません。今ここについて考えてるだけであって、未来について展望しないんです。子どもたちに将来何になりたいかと聞いても答えが返ってこず、ポカンとしてるだけ。未来の概念はとても薄いんです。

農耕をする場合前もって種を仕入れておかなければいけないなど準備が必要ですが、狩猟民は森の中でそこにいる動物をとる生活なので、計画性が育ってこなかったんですよ。

 
ヒゲイノシシを担ぐハンター(photo/奥野克巳氏提供)。

反省も心の病もない

その分、過去に遡って責められることもないですよね。

奥野

過去に関しても振り返らないので、誰がやったのかみたいな責任を詮索することもありません。これはなかなかいいやり方です。逆に私たちは常に反省するよう強いられていて、歴史のどこかで反省というものが生まれたんじゃないかと考えることができます。

私たちにあるいろんなものがプナンにはなくて、ストレスさえないです。私が調査したところうつ病の人はいないし、うつ病という言葉もありません。心の病がないんです。

 

いつも誰かといて、自分と他人との境界も薄そうな気がします。

奥野

他者と自己の境界がはっきりせずに、交わり合っているような社会です。損得勘定や過去、未来で何かを決めることがない暮らしですね。そこから帰ってくると、日本ではやってはいけないこと、やらなくてはいけないことからスタートしていて、生きづらさを感じます。

文化人類学というのは最初、狩猟民のことを「未開」と考えていました。自分たちは精神的に彼らよりもたち上だと思っていたんですけれども、そうではなかったということです。今、彼らから学ぶことはたくさんあるし、そこには私たちがこれからの社会を生き抜くためのヒントもたくさんあると思います。

 
奥野さんの著書(一部監修)の一部。『これからの時代を生き抜くための文化人類学入門』(辰巳出版)、『はじめての人類学』(講談社)、『世界ぐるぐる怪異紀行: どうして”わからないもの”はこわいの?』(河出書房新社)、『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(新潮社)、『絡まり合う生命』(亜紀書房)。

[取材・文]樋口 かおる