人間のそばにいてくれる猫という存在

よく話題になる「猫派か犬派か」問題。名越先生のライブでも、お客さんから質問が出てました。

名越

僕は圧倒的に猫派ですね。小さい頃にかじられたことがあって、犬がワンワン吠えてるとちょっとしんどくなるんです。トラウマやね。トラウマの治療も自分なりにやって半減したけど、それ以上は取れません。

大きくて優しい犬もいるでしょ。赤ちゃんをジイっと見たときみたいにとろけるような思いになるから、犬も嫌いではないんですけど。

 

猫写真家の土肥さんも、猫派ですよね?

土肥

猫も犬(柴犬)も一緒に暮らしてるので、どっちも好きです。柴犬は海外では「猫っぽい犬」といわれてるらしく、柴犬の猫っぽい性質がどうも好きみたい。マイペースでツンデレな生き物が好きです。なので、猫派!?

猫のどんなところが好きですか。

名越

うちのバンドリーダーの佐藤さんの家の2匹の保護猫が、僕が来たらすごく甘えてきてくれるんです。2回か3回目には僕のスネをこすってくるようになって、「こんなこと今までの来客ではなかった」って言われてうれしくなって。今では僕の横に座って「はい、お尻叩きなさい」って待ってるから、「こっちも腰こっとんねん」って思ってます(笑)。

 

土肥

猫の好きなところはかわいいところと、マイペースで自由を愛してるところ。甘えん坊だったりクールだったり、振り幅が大きいところにも翻弄されます。

撮影している北海道の猫、ケンジはメンタルが安定していて、猫っぽい自分勝手さやネガティブさがあまりないところが好きです。猫の好きなところもケンジの好きなところもたくさんありすぎて、困りますね。

撮影:土肥美帆 『みんなケンジでご機嫌だべや』(土肥美帆著/河出書房新社)より。ケンジは大きな体とシブい表情が人気。

猫はなぜ「尊い」?

土肥さんの写真集『みんなケンジでご機嫌だべや』の帯には、名越先生の「この存在が尊い、としか言いようがない。」という言葉が。

土肥

「尊い」って言っていただいて本当に驚きました。

名越

読み終わったとき発作的に言葉が浮かんだんです。「ありがたいな、道祖神みたいな猫やな」と思って。

 

土肥

道祖神?

名越

道のお地蔵さんみたいな。お地蔵さんよりもっと素朴な、岩や石にも神性を感じて祀っていたんですよね。昔の人は生きるか死ぬかで生きてるでしょ。今みたいに冷蔵庫はないし、食べるときに食べないと死んでしまうような世界で生きてるから、感覚が鋭敏やったんでしょうね。

お腹が減ってると、感覚が鋭敏になりやすいんですよ。それでたとえば「ただの石やけど、輝いて見えるときがある」って感じたら、守り神になる。誰かが企画してはじめたことではないから、めいめい勝手にお饅頭を捧げたり前掛けつけたりして、その土地のよりどころになってるわけでしょ。そういう猫に見えたわけ。

 

土肥

ケンジが住んでいるところは漁師さんが多くて自然を直に感じて生きているし、猫は守り神。そこで私たちはケンジのことを「ケンジ神」と呼ぶこともあって。

近くにいる私たちだけじゃなくて、SNSに投稿しているケンジの姿に「元気をもらった」と言っていただくことも多いんです。「仕事をがんばれる」とか、不登校のお子さんが「ケンジが学校にいるようなつもりで学校に通っている」とか。

名越

やっぱり汎神論的な世界ですよねこの国は。すべてのものに神が宿ってますから。それがケンジとあなたとで波動が合いやすかった。あんまり合いにくい猫もいるのかもしれないけど、非常にしあわせなことにケンジは多くの人に合いやすくて、心のよりどころになるから、動く道祖神みたいになったんでしょうね。

だからあなたの言ってることは別におかしな話ではないんです。むしろ20世紀頃から、人間がどんどんそういう感覚をなくしていったんですよ。

 

「猫を飼ってる人は、猫に見返りを求めていない」

今、生きづらさを感じている人が多いですね。

名越

欲をなくすことが大事です。仏教では2500年前に結論が出ています。欲を減らしたらその分楽になって、しあわせに暮らせるというシンプルな答え。それ以外の答えはないんですよ。思想家もたくさん出て宗教も何千とあって、みんな違う言葉で「初めて言った」というふうにしてるけど、だいたい同じことを言ってます。

欲には物欲もあれば主義主張をしたいとか様々あって、それをちょっと減らしていくとハッピーになる。そういうことはおそらく仏教が一番ちゃんと言っているんですよね。

 

土肥

欲をなくすって、難しいです。

名越

僕もできません。それに欲を一気になくすっていう意味ではなくて、その人なりの削り方でいい。「子どもにこうあってほしいけど、押し付けたらその子のしあわせを阻害するからこれくらいでいい」という感覚を持つとか、それぐらいのこと。これは僕が考えたことではなくて、お釈迦様や弘法大師がした話やから確かなことと思います。

 

土肥

猫に「こうあってほしい」は伝わらないし、こちらを好きになってくれるとも限らない。だから猫を飼ってる人は、猫に見返りを求めてないんですよね。その点では、無欲に近くなれるのかも。

「猫の価値は見えない価値」

見返りがなくても、人間は数千年も猫と暮らしています。

名越

そんなに長く?

 

土肥

古代エジプトでは猫の女神「バステト(※1)」が大切にされてましたし。

名越

ほんまやね。でも、今はネズミを取ってくるようなことも少ないし、狩に付き合ってくれるわけでもない。なんで猫を飼うの?

 

不合理ですよね。人間を下に見てきますし。

名越

下に見てくるから神になったんでしょうね。

 

土肥

えらそうだけど、なぜかとても癒されるんです。猫に踏みつけられると、むしろ幸せな気持ちになります。

名越

一番になりたくないんちゃう?

 

土肥

一番?

名越

人間って、生きていくうえで言い訳が必要ですよね。たとえば僕は腰痛があるから、何か用事があっても「腰痛いから遠くまで行かれへん」って言い訳ができます。集まりがしんどいなというときも、「猫がいるから早く帰らなあかん」と言えるでしょ。自分を一番にしてませんと、言い訳ができる対象って実はとても大切なんです。

 
撮影:土肥美帆 『みんなケンジでご機嫌だべや』(土肥美帆著/河出書房新社)より。

猫は絶対的だから、言い訳のよりどころになりますね。

名越

現代の猫は労働する仲間ではないので、不合理だしごくつぶしみたいなもの。でも、そういう役には立たないものを飼ってる人生って、豊かなんです。ドラえもんってのび太くんにとっては救いの神だけど、どら焼きを10個とか20個とか食べるし、お父さんとお母さんにとって利益はない。でもお父さんとお母さんは平気で息子でもないドラえもんを養ってるでしょ。どら焼き代もバカにならないのに。そういうのは豊かなことなんですよ。

「不条理なものを自分の責任として育てるのが大人や」みたいな感覚は、人間の本能の中にあるような気がします。昔は居候も当たり前にいたし、縁もゆかりもない子どもにご飯を食べさせてあげることもあったでしょう。神様のためにお社やお寺を建てることでも、直接何か儲かるわけじゃない。でも「ありがたいな」というかけがえない感覚が日々生まれます。この感覚や感情が日々そのひとを癒して励ますわけです。この積み上げはいずれ、無視できないほどの差をその人の人生にもたらします。そういう物質主義じゃない世界の端に、猫を飼うっていうこともあるんじゃないか。自分の精神的な豊かさのためですね。

だから猫の価値って見えない価値で、見えない価値という意味では神なんですよ。

 

土肥

そうですね。神だと思います。

名越

ひっくり返すと「無駄なこと」。でも「得することだけやる」という人は底が知れて誰も近づかなくなるからどんどんさびしくなって、結局損をします。一方、しあわせそうに見えて「何もしていない私に笑顔をくれそうな雰囲気がする」人には、人が集まってきます。

 

土肥

招き猫のような。

名越

そうそう。猫に対するような無償の愛を持った結果、商売繁盛するかもしれない。そんなふうに、全部つながっているんですよ。

 
左から 『みんなケンジでご機嫌だべや』(土肥美帆著/河出書房新社)、『とげとげしい言葉の正体はさびしさ』(精神科医N著/夜間飛行)。

古くから人間のそばにいて、大切にされてきた猫。その謎を探った前編はここまで。後編では、人が猫にあこがれるのはなぜか。少しでも猫に近づくにはどうしたらいいの?を探求します。お楽しみに。

※1:
古代エジプト神話に登場する女神。猫の姿、もしくは猫の頭をした人間の姿をしている。

[取材・文]樋口 かおる [撮影]工藤 真衣子