【前編】川内 有緒
「世の中から求められてないことをやる」。小屋づくりで得られたものは
奇跡・運はどこにある?
2024.04.18
「つくるより買ったほうがコスパもタイパもいい」
日々の料理や洋服、家具など。そういわれるものは多いです。
大量生産の商品やシェアアプリがあふれるなか、作家の川内有緒さんが求めたのは手作りの小屋をつくること。お金を出せば短期間で業者がやってくれる施工を、東京から山梨まで通いながら6年かけて完成。「場所がない」「木材がない」といった問題に直面するたび奇跡的に助けてくれる人があらわれ、どんどん小屋仲間が増えていく事態に。
助けてくれる縁やチャンスがあらわれても、勇気が出ずに見逃してしまうことも。『自由の丘に、小屋をつくる』の著者、川内さんはなぜ小屋づくりをはじめ、助っ人はあらわれたのでしょう。過去にもさかのぼってお聞きします。
( POINT! )
- 小さな机づくりからDIYをスタート
- 考えすぎないから行動できる
- 世の中に求められてないことをやる
- 未練が少ないので変化できる
- 波が来たら乗る
- 不確実な未来が好き
川内 有緒
1972年東京都生まれ。ノンフィクション作家。映画監督を目指し日本大学芸術学部に進学したものの映画の道は断念。米国ジョージタウン大学で中南米地域研究学修士号を取得。米国企業、日本のシンクタンク、フランスのユネスコ本部などに勤務。2010年以降は東京を拠点に評伝、旅行記、エッセイなどを執筆。『パリでメシを食う。』(幻冬舎)、『目の見えない白鳥さんとアートを見に行く』(集英社インターナショナル、本屋大賞 ノンフィクション本大賞)。『自由の丘に、小屋をつくる』(新潮社)など著書多数。映画『目の見えない白鳥さん、アートを見にいく』共同監督も務める。
小さな机探しからはじまった小屋づくり
小屋づくりは、小さな机がきっかけだそうですね。
川内
娘のために机が必要になって、買うんじゃなくてつくってみようみたいなところで。検索したら早稲田の「DIYがっこう」がちょうど体験を受け付けているのを見つけました。「あ、ここに行ってみたらいいのかな」と思ってすぐ行ったんですよ。翌週とか。
見つけてからが速い。既製品もたくさんあるのに、つくろうと思ったのは?
川内
「小さな机」というシンプルなものだったから、つくれるかもしれないと思ったんでしょうね。不器用でインパクトドライバー(ネジを締める電動工具)も使ったことなかったのに(笑)。
東日本大震災があって、それまで漠然と感じていた「何もつくれない自分の無力さ」への不安がはっきりしたところだったんです。家具は元々好きだし、これから生きていく娘のためにも「つくる」という選択肢を持てたらいいだろうなと。「机をつくろう」と思いついて数分後には「いつかは小屋も」と妄想していました。
DIYをする人の憧れ「小屋づくり」が実現しましたね。不器用でも挫折せず…。
川内
DIYがっこうはみんなで同じものをつくるという感じではなく、「つくりたいものがあるんですか」って聞かれて。「あ、机つくりたいです」って言ったら「じゃあやりましょう」みたいな。「やっちゃいましょう」みたいな感じではじまったんですよ。
今考えると、つくりたいものをつくれるっていうのが魅力だったんですよね。大きいものをつくってる人もいれば、ずっと何もつくらずにひたすら刃物を研いでいる人もいて。楽しい空間でした。
自由ですね。「やってみよう」と思ってなかなか実行できない人も多いけど、川内さんはわりとすぐ行動できそう。なぜでしょう。
川内
面倒くさいことは苦手なんですよ。でも、行動するのはあんまりよく考えてないからじゃないですか(笑)。
奇跡的にパスした大学院の卒業試験
考えすぎて動けなくなること、ありますよね。川内さんはかつてユネスコで働いていて、現在は作家のほかに映画監督もされています。「こんなキャリアを積み上げよう」と考えていたわけではなく?
川内
25歳のときに社会に出たんですけど、その頃は「何がしかの人にならなければ」みたいな焦りがあったし、キャリアはアップしていくものという意識もありましたね。次に転職したらどこに行くんだろうとか。
社会に今こういう課題があるからこんなプロジェクトをやろうとか、求められているものをいかに達成するかという世界にいたけど、フリーランスになってからは「役に立ちたい」とか「キャリアを積み上げたい」みたいな気持ちをあまり持ってないです。「世の中に求められてないことをいかにやれるか」っていう別の世界。自分のできるペースでやっていこうみたいな感じですね。
そうなんですね。ユネスコに入った経緯も珍しいと聞きましたが。
川内
さかのぼると、卒業するのが難しい大学院にいたんです。5時間ぐらいかかる卒業試験があって、2回連続で落ちたら卒業できない。無理だと思って卒業する時期を延ばして最初の年は受けず、さらに1学期間延ばしてもらったけどそれでも危うい。とにかく卒業要件として卒業試験とスペイン語の試験をパスしなくてはいけないから、就職活動どころか就職のこと自体考える余裕もなくて。でも、奇跡が起こって卒業できたんですよ。
どんな奇跡ですか?
川内
パスできる気があまりにもしなくて、学部長に「無理だと思います」って半泣きになりながら泣きついていたんです。そうしたらかわいそうだと思ったのか、学部長が卒業試験の時間を特別に無制限に変えてくれて。
特別に対応してくれたのは、その学科のなかで私がその学科では珍しいアジアから来た留学生で、他は英語やスペイン語ネイティブの人ばかりだったからという事情もあります。ともかく卒業できたので、終わった瞬間に「やったー!」と解放されて、車でニューヨークに遊びに行きました。
3日後くらいにルームメイトが電話で「戻ってこれない?ぴったりのポストの求人が出てるから履歴書を送って。出しておいてあげる」と。それで友だちの家で簡単な履歴書を書いて送って、急いで車で戻ってそのとき着てたてきとうな服で面接を受けました。30分くら話したらその場で採用になったので、そこではじめて「ここはどういう会社なんですか?」と聞きました。
狭き門と知らなかったので挑戦できた
どんな会社かわかってなかったんですね。
川内
そうなんです。聞いてみたらコンサルティング会社だったからコンサルタントになって、学術都市をつくるプロジェクトでパナマに数カ月行ったのが最初の仕事。そこを辞めたあと、その会社のジョイントベンチャーの相手だった日本のシンクタンクにバイトで入って。最初は単純なデータ入力だったのにどんどん重要な仕事を任されるようになり…。結局嘱託社員になったけど仕事がキツすぎて辞めました。その頃ユネスコから書類審査通過の連絡が来て。
シンクタンクを辞める時期に応募したということ?
川内
働きはじめた頃ですね。バイトだったので長くは続けられないかもしれないと思って応募したんです。でもそこから2年経っていたので最初「なんのこっちゃ」って驚いたけど、ちょうど会社を辞める決断をした頃だったので渡りに船だと。
2年は長いですよね。そんなにかかるものなんですか?
川内
一般的に時間がかかるけど流石にそこまでではなくて、時間もだけどルート自体も特殊ケースだったみたいです。応募して2年後に面接を受けて、そこからまた9カ月くらいかかって幸運なことに採用されて、パリで働くことになりました。
ふつうは待てないですよね。でも、偶然ちょうどいい流れに。
川内
採用の確率もかなり低いことを事前に知っていたら、みんな応募しないと思うんです。わざわざそんな大変な道を選ばなくてもいいじゃないですか。でも、知らなかったので突き進んでしまいました。
不確実なことを楽しんで、来た波を逃さない
スキルは誰でも真似できることではないけど、「よく知らないから挑戦できた」の部分は、躊躇しがちな人の参考になりますね。小屋づくりも、工程をよく知っていたらやろうと思わないだろうし。「軽率力」が高いのかも?
川内
そんな感じですね(笑)。そのときの思いつきで「できるかもしれない!ざぶーん」みたいな。
小屋を建てる場所を探していたら、発酵デザイナーの小倉ヒラクさんと編集者の小野民さん夫妻から最高の場所を借りることができたそうですね。小屋づくりでも就職でもイレギュラーな奇跡がたくさん起きていて、なぜそんないい巡り合わせになるのか不思議です。
川内
軽やかに飽きっぽいので、その分愛着も薄いんですよ。今やってる仕事がこうだからという未練も少なくて、次に行きやすいというのはあると思います。波が来たら乗っていくみたいなことだけは得意です。
きっといろんなチャンスがみんなにあるけど、心配したりちがうかなと思ったりして現状維持を選ぶことがありますよね。周りの友だちからも、変わることは怖いと聞くことが多いです。
土地探しも小屋づくりも期限までに完成させるといったタイパとは無関係で、どうなるのかわからないものですよね。
川内
そういう不確実なことに耐えられないと、不安になったり確実な道を選ぼうとしたりすることがありますよね。私は不確実な未来が好きなんだと思います。不確実なところに漂ってる時間も嫌いじゃないみたいな。そこに、1人わくわくしてしまうところもあります。
たくさんの奇跡の助っ人に巡り合う川内さんの小屋づくりと過去を伺った前編はここまで。後編では、小屋づくりでなぜ居場所ができたのか、手伝ったり人に頼ったりすることで生まれるものについて伺います。お楽しみに。
[取材・文]樋口 かおる [撮影]武藤 奈緒美