個性は「個人差」。無人島に行ったら、個性はゼロになる

若新さんは長年、人間関係や葛藤と向き合い続け、「今も思春期」とも自称されています。そんな若新さんは、「個性」をどのようにとらえていますか?

若新

個性は、「個人差」と考えるのがわかりやすいと思っています。

たとえば、ぼくの身長は179cmです。それをぼくの個別の性質と考えれば個性でもあるかもしれませんが、この身長だと、一般的な個性といえるかは微妙なところです。逆に身長がもっとすごく高かったり低かったりすれば、個性といえるものになってくる。

つまりぼくたちが「それも個性だよね」などと言ったりする個性って、その性質が人と大きく違うときなんです。だからこそ、個性を「個人差」と置き換えて使うのが、すごくわかりやすいなと。

 

なるほど。しかも個人差と言ったほうが、個性ほど気がまえなくていいですね。

若新

必要か不要かより、個性は「回避できないもの」という存在に近いと思います。個性を持てたらいいなとかではなく、「誰にも必ずあるもの」「その人についてまわるもの」ではないでしょうか。つまり、個性は不可避であると。

不可避だからこそ、違いをうまく周りに紛れ込ませる人もいるし、逆に違いを何か有用な価値にしようとする人もいる。そして違いに苦しむ人もいる。

 

個性への向き合い方も、人それぞれなわけですね。そもそも自分の個性って、意外と自分では気づきにくかったりします。自分で個性と思っているものが、言うほど個性的でなかったり、逆に人から思いもよらない個性を指摘されたり…。個性をきちんと自覚するには、どうすればいいのでしょう?

若新

個性って「相対的」なんですよね。同じ身長179cmであっても、比べる対象によっては「背が高い」との個性にも、「背が低い」との個性にもなり得る。もちろん「ふつう」とみなされ、個性にならない場合もある。

そんなふうに個性とは、他者と比べて初めて浮き彫りになるものなので、決して不変ではありません。関係する環境により、流動的に変わるものなんです。したがって無人島に行ったら、身長や体重といった個別の性質は観測できても、それが個性的であるかどうかはもはや測りようがありません。

 

他者との違いを受け入れて生きる方が楽?

たしかに……。ではそれをふまえたうえで、就職や転職の試験などで自分の個性をアピールしようと思ったら、どうすればいいでしょう? いきなり自分が何者かを語るのは、なかなか難しいです。

若新

やっぱり自分のことをひたすらみつめるより、関わる他者を通して自分を観察することが、ポイントになるのではないでしょうか。それこそ身長や体重、あるいは好きな食べものや、何時に寝るかとかであれば、自分を観察すればわかります。でもそれを挙げるだけでは、決して自分の個性を伝えることにはなりませんよね。

反対に、たとえば「私がふだん仲良くしているのはガヤガヤとよくしゃべる人たちで、私はその話をじっくり聞いたり、まとめたりすることが多いです。つまり私には、そういった主張の強い人たちの間で、口数は少なくとも接着剤のような役割を果たす特徴があります」などと言えれば、個性をしっかり伝えたことになります。

 

ではあらためて、そうして浮き彫りになった個性とは、どう向き合っていけばいいでしょう? 結局、どうするのが幸せなのでしょうか。

若新

先ほど話したように、個性に対する向き合い方は人それぞれです。

あえて個性を前面には出さず、人との違いをなるべくなじませながら、個性でなるべく悩まないように生きるのも一つの生きる技だと思います。一方で、人との違いを浮き彫りにし、それを有用な形に活用していくのもまた、生きる技です。

ただ、どちらが人として自然かといえば、違いを認めて生きる方なのかなとも思います。なんといっても、個性からは逃れられないので。

 

逃れられないからこそ、うまく価値に変えられたら万々歳ですよね。

若新

それを語るうえで挙げたいのが、最近のマスクについての議論です。

コロナ禍が落ち着いてマスク着用が求められなくなったにもかかわらず、“顔を見せるのが恥ずかしい”とマスクを外せない中学生に対して「それも多様性の一環としてマスクを外すことを強要せず、個人の自由にゆだねるべき。それこそが優しさだ」といった論調があります。でもぼくは、顔を隠してもいいんだよと言うのは、決して優しさにはならないと思うんです。

 

それはなぜでしょう?

若新

前述のとおり、どんな人にも持って生まれた個別の性質があります。もちろん、ある程度は化粧や整形手術などもできるでしょうが、基本的には生涯、その性質を持ち続けなくてはいけない。だからこそ、どこかでその「隠し切れない違い」を受け入れられないと、すごく生きにくくなると思うんです。

 

僕の容姿も「あきらめ」から始まっています

若新

マスクを外さなくてもいいよと言われることで、じゃあ顔を見せたくないから着けたままにしようとなる。それはいうなれば、ありのままの自分に向き合うことの“棚上げ”です。それが是となれば、将来的には、じゃあ恥ずかしいから声も隠そう、動き方も隠そうなどとエスカレートしていくでしょう。それが進めば進むほど、逆説的に生きづらくなっていくと僕は思います。

 

ただ、自分のいやな部分を受け入れるのは、かんたんではありません。どんなふうに受け入れていけばいいのでしょうか。

若新

こう言っては身もフタもないかもしれませんが、ある種のあきらめとひらきなおりが、大きな後押しとなります。たとえばぼくがいい年をして若作りをしたり容姿にこだわったりしているのも、「あきらめ」からスタートしています。ああ、自分はもうこの容姿で生きるしかないんだな。それなら開きなおって、この容姿を活かして楽しくできないものか、考えてみようと。

そこに、ぼくがたまたま肌の色が白くてビジュアル系バントが好きだったことが組み合わさり、こうした方向に着地する形になりました。もともとの性質が違ったら、また違う方向性の容姿にすごくこだわっていたかもしれません。

 

若新さんの風貌が、一種のあきらめからきているものだとは、思いもよりませんでした。

若新

もちろん、持って生まれたものと言っても、なかには変えられるもの、矯正できるものもあるかもしれません。それに、いきなりありのままの自分をすべて受け入れ、ひらきなおるなんてことは、そうできるものではありません。結局は、個性について一生あれやこれやともがきながら、向き合っていくのかなと思います。

 

いろいろ試行錯誤して、少しずつ何かを受け入れたり、受け入れられなかったり、ときには必要に応じて矯正したりもしながら、自分の個性とつきあっていくと。

若新

ぼくらは、持って生まれたものを「もっとあっちがよかったのに」とか言いながらも、基本的には受け入れざるを得ません。それって、いうなれば、「ガチャ」ですよね。でも、ガチャだからがんばっても意味がないのではなく、「ガチャだからおもしろい」とぼくは思っています。

自分が与えられたのはこんなものかと思いつつも、それが他の人とどう違い、どんなふうにすればおもしろくなるのかを一生追い求めていく。ガチャでありつつ、それをする余地が残されているのが、人生なのかなと思います。

 
若新さんの著書『創造的脱力 かたい社会に変化をつくる、ゆるいコミュニケーション論』(左、光文社)と共著『スタディサプリ 三賢人の学問探究ノート(2) 社会を究める』(右、ポプラ社)

以上、前編では若新さんに「個性とは、人との関わりで見えてくる“違い”のこと」、そして「隠しきれない違いを受け入れることで楽になる」といったお話をいただきました。

ただ、ありのままの自分を受け入れるのは、やはり難しい……。後編では引き続き若新さんに、より解像度を高めた「個性を活かす方法」を教えていただきます。

[取材・文]田嶋 章博 [編集]樋口 かおる