いま“冷蔵庫”にあるもので、おいしい“料理”をつくる

前編では、「自分をいかす」仕事の見つけ方を中心にうかがいました。「お客さんではいられないことを考える」「頭で考えすぎない」ことがヒントになるのではないかというお話でしたが、より具体的な行動についても聞いてみたいと思いまして。いま現在「仕事を変えようかな」と悩んでいる人がいたとしたら、「自分をいかす」仕事を見つけるために、具体的には何から始めるとよいのでしょうか?

西村

ある人のお話をさせてください。いま、その人は植木職人をしていて、業界にかなり影響力を持っているのですが、若いときは別の仕事をしていました。そのころ仕事に行き詰まって、地元の商工会議所が開催している起業セミナーのような催しに参加したそうです。

そして講義のあと、講師の方に直接「僕は何をやったらいいんでしょうか?」と聞いたらしくて。普通に考えれば、よく知らない人のそんな質問になんて答えられないじゃないですか。でも、その講師の方はちゃんと答えてくれたと。その答えとは、「明日から始められることをやるといいですよ」というもの。この話を聞いたとき、素晴らしい答えだなと思ったんです。

 

なぜそう思ったのでしょうか?

西村

前編で「思考は常に少し古い」というお話をしたじゃないですか。私たちは昔の思考やアイデアにいつも振り回されてしまっていると。その話に通じるのですが、昔の自分に課された“宿題”に縛られてしまっていることがあると思うんですよね。「この仕事で頑張っていこう」と思ったのだから、やり続けなくてはならないとか。そういった考えから自由になって、「いま」に立ち返ることって、すごく重要だと思うんです。

「明日から始められることを」というアドバイスは、「いま」始められる新しい一歩をうながしているという意味で素晴らしいなと。それに、頭の中でいくら計画を練ってもうまくいかないことってあるじゃないですか。「始めること」が何よりも大事だということも伝えてくれる言葉だと思います。

 

思い当たる節がありますね……。何か新しいことをやろうと思って、計画は立てるけれど、結局計画倒れになってしまったことは数え切れないです……。

西村

大事なのは、いま冷蔵庫にあるものでおいしい料理をつくるような感覚で、次の一歩を進めることだと思うんですよね。「いい材料を集めて、最高のフレンチをつくってやろう」と思っても、きっといつまで経ってもそんな料理はでき上がらない。“冷蔵庫”にはそれまでの人生を通して培ってきたものがすでに入っているわけですから、それをどう組み合わせて“料理”にするかを考えた方が、健全だと思います。

 

身の回りから量産品を減らすと、自分が見えてくる?

でも、「どんな“料理”をつくればいいかわからない」という人も少なくないと思うんです。いま紹介してくださったセミナー講師の方のアドバイスに言葉を返すなら、「そもそも、明日始めたいことなんてない」という人もいるのではないかと……。そういった人に何かアドバイスを送るとすれば、どんなものになるでしょうか?

西村

「自分の人生から、“量産品”を減らしてみよう」、ですかね。

 

量産品……?

西村

はい。マスプロダクツ、つまり工場でつくる量産品のことです。いまって、生活の中で触れるもののほとんどが量産品になっていますよね。そして、その割合はどんどん増えていると思うんです。コンビニで買う食事、あるいは洋服など、意識しないと私たちの生活はマスプロダクツで満たされてしまいます。街のチェーン店の割合も増えている。

もちろん「身の周りのものはすべてDIYしよう」「すべてを一点物で固めよう」と言いたいわけではありません。ですが、食事にしろ洋服にしろ、量産品の割合を減らして、誰かのオーナーシップが発揮された、言い換えれば個人が主体的に取り組んだ結果として生み出されているものに触れた方がいい。「組織に命じられたからつくっているもの」ではなく、「個人が主体性を持って生み出したもの」に日常的に触れていることが「自分」の輪郭をはっきりさせるきっかけになるのではないかと。

なぜならば、「オーナーシップが生み出すもの」には、つくった人の個性が宿っているから。そしてそれは作り手が「自分の個性を発揮しよう」と意図してそうなったわけではないと思うんです。「別にそうしたいわけではないけれど、どうしても『自分』が出てしまう」。そんな形で、その人らしさが宿るものが生み出されているのではないかと思います。そして、そういったオーナーシップがある仕事やその仕事が生み出すものに触れていると、自分の中の何かが呼応する瞬間があるんですよね。

 

前編でおっしゃっていた、「くやしい」あるいは「お客さんではいられない」感覚のような?

西村

近いかもしれません。最近は、そういう感覚を感じにくくなっているような気がするんです。なぜならば、誰かのオーナーシップではなく、システムがつくり出す量産品に囲まれているから。量産品って、なるべく多くの人が一定の満足感を得られるようにつくられていて、最大公約数的なものになりがちなんですよね。そういったものばかりに囲まれていると、自分をそちらに適応させざるを得ないじゃないですか。いつの間にか最大公約数的な存在になってしまう気がするんです。

 

なるほど。量産品に囲まれていると「自分」という存在の核のようなものや、何をすべきかがわからなくなってしまう。だから、「量産品を減らそう」と。

西村

社会って、人の仕事の集積でできていますよね。私たちは常に誰かの仕事から影響を受け、私たち一人ひとりの仕事もまた、誰かに影響を与えている。社会にはそういった循環があるわけですから、量産品をつくるような仕事ばかりになってしまうと、量産品のような人も増えてしまうと思うんです。

 

孤独の中で「自分」を見つける

量産品ではなく、オーナーシップがある仕事に触れ、自分と向き合うことが大事だということですね。

西村

「自分に向き合う」という言葉は、実はけっこうやっかいな言葉だと思うんですよね。というのも「向き合う」という言葉が喚起するのは、「正面に立って、まっすぐ見る」といったイメージじゃないですか。そうして自分を見つめ直し、頭を使って言語化しようとする。でも、自分を知るために大事なのは「正面」ではなく、「傍ら」に立つことだと思うんですよね。

前編で、「雑誌を読んでいるときに思わず手が止まるページに自分を知るためのヒントがある」といった話をしました。そういった「何気ない行動をしている自分」の傍らで、「あ、こんなことをしているな」と観察する必要があると思うんです。自分を知るためには「自分と向き合う」のではなく、「自分と一緒にいる」ことが大事なのではないかと。でも、最近は他人と付き合ってばかりで、自分と一緒にいられていない人が多いのではないかと感じています。

 

頭の中で言葉を使って自分を掘り下げるよりも、「もう一人の自分」と一緒にいることが自分を知ることにつながる?

西村

そのことについて触れるとき、いつも思い出すことがあるんです。1960年代の後半、公民権運動が一段落しつつあるアメリカで、「人間性回復運動」というムーブメントが巻き起こりました。この運動には、2つの流れがあった。一つは、「ヒューマン・ビーイン」といって、みんなで集まり、手を取り合うことで時代をつくっていこうとする流れ。実際、数万人規模の集会が、西海岸の都市を中心に開催されたそうです。

他方、単独でバックパック一つを持ってウィルダネス、つまりは手つかずの自然の中に入り、数日間を過ごすことで人間性を取り戻そうという流れもありました。この2つの流れは、アメリカ文化の2つの側面──多様性を尊び「みんなで手を取り合うこと」を重視する文化と、孤独を愛する文化をよく表している気がするんですよね。

そして、一人でウィルダネスに入っていく行為は、「自分と過ごす」時間をつくる。つまり、「一人になることで、“二人っきり”になる」。人間性回復運動という文脈で、こういった行為が流行したということは、とても示唆的なことだと思います。

 

孤独にならなければ、「自分」を知ることは難しい、ということでしょうか?

西村

そうですね。現代の情報環境では、ちゃんと孤独になるのが難しいと思う。家で一人過ごす時間を持ったとしても、その時間はスマホに埋められてしまうことが多いですからね。意識しないと、孤独にはなれないと思います。

 

そんな環境の中で、孤独になるためにはどうしたらよいのでしょうか?

西村

やはり、オーナーシップがある仕事が生み出したものに触れるのがいいと思います。先ほど言った洋服、食事、あるいは個人経営の居酒屋など……何でもいいのですが、特にアートがいいと思いますね。アート作品って、主体性の塊ですから。

「アートを見ても、よくわからない」と言う人もいますが、それでいいんですよ。わからないながらも「なんかいいな」と思ったり、「もやもやするな」と思ったり、美術館という場所は、そういった「わからなさ」に出会うための場所だと思うので。もちろん、絵画や彫刻じゃなくても、映画や小説でもいいでしょう。一人で誰かのオーナーシップが生み出した作品に触れることが、「私自身」に立ち返るきっかけになると思います。

 

「光」を感じる人に、会いに行ってみる

孤独になることが、自分の個性を知るきっかけになると。個性といえば、ここ数年でその重要性が強調されるようになったと感じているのですが、この状況を西村さんはどのようにご覧になっていますか?

西村

あるものの重要性がことさらに強調されているときって、それが危機的な状況にあるときだと思うんです。その重要性や価値が当たり前のように共有されていれば、わざわざ声高に「大事だ」と言う必要はありませんからね。そういった意味で、いま個性を発揮するのは難しい状況にある気がします。

ただ、そもそも「個性的に生きよう」とすること自体がちょっと変な話だとも思うんです。個性は自然に生まれてくるものですし、「個性的に生きよう」と力んだところで、そうできるわけではないでしょうからね。だから、自然と個性が出てくる場所や時間を、生活の中に組み込むことが大事だと思います。

 

その方法が、「量産品を減らす」や「自分と過ごす時間を増やす」だということですね。

西村

そうですね。あとは、身近な「個性的に生きている人」に会って、話してみるのもいいと思います。私が会社員のとき、他部署にとてもオーナーシップがあるいい仕事をされているなと思う先輩がいて、しょっちゅうその人に会いに行っていたんですよね。その人の「あり方」自体に光を感じていたというか。

もちろん、量産品的な人から光を感じるのであれば、そういった人に会いに行けばいい。いずれにせよ、自分が光を感じる人と会って話してみることが大事だと思います。私もその先輩と話し、共に行動する中で私が必要だと思うたくさんの知識やネットワークなどを分け与えてもらいました。理想的な「あり方」だと感じる人の周りには、自分に必要なものが集まっているんです。だから、光を感じる人を見つけたら、積極的に会いに行ってみるといいと思います。

 

[取材・文]鷲尾 諒太郎 [撮影]須古 恵 [編集]小池 真幸