【後編】石田 光規
「多様性のある社会」は、間違いと失敗の先にある
「人それぞれ」の孤独を抜け出し、つながるための方法
2022.04.14
そういえば、いつからか誰かと真正面からぶつかることが少なくなりました。それはぼくが「大人になった」ということなのかもしれません。自分とは異なる意見を持つ人に相対したとき「まあ、人それぞれだしな」と意見の違いを表明することなく、やり過ごす。
衝突を避け、なんとなく他人の意見を「受け入れる」ことで、多様性を尊重する「ふり」をする。そんなスタンスこそが孤独を生む「人それぞれ社会」をつくり、多様性のある社会を遠ざけていると指摘するのは、社会学者である石田 光規さんです。
日本が「人それぞれ社会」になった経緯と、その弊害を聞いた前編につづき、後編では「人それぞれ社会」を脱し、本当に「個が尊重される社会」をつくるためのアプローチをうかがいます。
誰も置き去りにしない「多様性のある社会」をつくるために、他者との衝突や傷つき、傷つけることから逃げてはならないと石田さんは言います。生々しく、現実的な、多様性についてのお話をお届けします。
( POINT! )
- 「人それぞれ」でも、「自由」じゃない
- 自由は、「強い個人」を前提としている
- 自由が尊重されるようになった結果、孤独な人が増えた
- SNSが、人の行動を制限する「迷惑センサー」を強化した
- 孤独だとしても、一定の自由を手放すことはできない
- 社会に一度定着した価値観を捨てるのは難しい
- 本当の「個の尊重」は、対話から生まれる
- 人間関係の中に、非合理を取り戻す
- 個を尊重するために、傷つき、傷つけることから逃げてはいけない
- 初めから完璧な「多様性のある社会」なんて実現できない
石田 光規
1973年生まれ。2007年東京都立大学大学院社会科学研究科社会学専攻博士課程単位取得退学(社会学博士)。現在、早稲田大学文学学術院教授。著書に『孤立の社会学──無縁社会の処方箋』(勁草書房)、『つながりづくりの隘路──地域社会は再生するのか』(勁草書房)、『郊外社会の分断と再編──つくられたまち・多摩ニュータウンのその後』(編著、晃洋書房)、『友人の社会史──1980-2010年代 私たちにとって「親友」とはどのような存在だったのか』(晃洋書房)、『「人それぞれ」がさみしい──「やさしく・冷たい」人間関係を考える』(筑摩書房)など。
私たちは「自由」になんかなりたがっていない?
前編でこんなお話がありました。「人それぞれ」と言っているはずなのに、「周りに迷惑をかけてはいけない」プレッシャーなどによって、結局のところは自由に選択できていないと。誰かと生きていかざるを得ない私たちが「自由に」なることって、そもそも可能なのでしょうか?
石田
完全な自由を手に入れるのは、かなり難しいことですよね。というのも、そもそも「自由」って、他者からの干渉や目線を物ともしないような、とても強い個人であることを前提とする概念なんです。他者からの影響や従属から逃れ、独り立ちすることを意味する「自立」と、自らのルールにしたがってセルフコントロールするという意味の「自律」、その2つのジリツを個人が実現してこそ、自由は手に入れられるとされています。
たしかに、1990年代後半から、人間関係においては私たちはかなり自由になったと言えます。親族との関係性や、あるいは結婚をする/しないの選択についても、「個人の自由」とされることが多くなりました。
その実感はありますね。
石田
しかし、多くの人が本当に自由になったかというと、そうではないような気がしていて。むしろ、それを望んでいないような気もしますね。たとえば、今ではほとんどの人がスマートフォンを持っていますよね。でも、本当にみんなが自由なのだとすれば、そうではない選択をする人がもっといてもおかしくないと思うんです。
単純に退屈しのぎになるから持っているという人もいると思いますが、スマートフォンを持つという選択の裏側には、「周囲の人とのつながりからこぼれ落ちたくない」という気持ちがある。本当に自由になりたいのであれば、スマートフォンを持たない方がいいはずなんですよ。
2040年、全世帯の40%が「一人暮らし」になる?
「社会にイノベーションを起こすためには、孤独な時間も耐えなければならない」といったような言葉を目にすることがあります。世の中をいい方向に変えていくためには、周囲からの支持が得られなかったとしても、「自由に」自らの信じる道を突き進む必要があるとされているように思います。
石田
これまでの歴史を見ても、周囲の制止を振り切り、我が道を孤独に突き進んだ人が世の中を変えた例はたくさんありますし、「自由」がイノベーションに結びつくことはあるでしょう。
でも、誰しもがそのような「強い個人」にはなれないと思うんです。それなのに、多くの人に自由や孤独を求めるようになってしまったのが、いまの世の中なのではないかと感じています。企業が発信するメッセージなどを見てもそうですよね。「あなたの個性を存分に発揮し、世の中にイノベーションを起こそう」といったことが語られることが多い。
もちろん、世の中の変化を止めてはなりませんし、社会をよい方向に導くイノベーションは必要です。しかし、すべての人にそれを求めるようになってしまった。前編で、日本人の多くが孤独を感じているというお話をしましたが、このことも孤独に関する問題の原因の一つなのではないでしょうか。
バブル経済の崩壊によって、従来の集団主義的な発想を見直し、個の力が生み出すイノベーションに突破口を見出そうとした、というお話がありました。それが行き過ぎてしまい、多くの人が孤独を抱えるようになったと。
石田
はい。そうした傾向が強くなるにしたがって、「置いて行かれてしまう人」が増えてしまったのではないかと思うんです。「自由であること」「孤独であること」がよしとされるようになったことで、精神的にも物理的にも「一人でいる」人が増えた。
総務省などが実施した調査によれば、単身世帯は年々増加し、2040年には全世帯の40%を占めるようになると予想されています。日本に限らず、人類は集団生活を基本形態としてきました。長い歴史を振り返っても、これだけたくさんの人が一人で暮らしている社会は、異例だと言えると思います。
SNSが、人々を分断する「迷惑センサー」を強化した
前編でお話していただいたような、「個を尊重する=そっとしておくこと」だとする勘違いも、多くの人に孤独を感じさせている一つの原因だと思います。なぜ「そっとしておく」ようになってしまったかと言うと、自らの行動や発言がひとたび誰かに迷惑をかけてしまったとき、大きな非難にさらされてしまうから、ということでした。
ご著書では、このことを指して「『人それぞれ』の行動を、『迷惑センサー』で監視するシステムをつくり上げた」と表現されています。この「迷惑センサー」の“精度”というか敏感さが、年々上がってきているように思うのですが。
石田
そうですね。新型コロナウイルス感染症の流行も原因の一つだとは思いますが、「迷惑センサー」の強化に最も大きな影響を与えたのは、SNSでしょうね。SNSの流行によって、個人の行動や発言が、瞬間的に数千、数万規模の人々に知れ渡るようになりました。それだけならまだしも、SNSは身のまわりでは少数派と思われるような意見でも簡単に集約してしまうのです。
ある個人が、見知らぬ誰かの発言や行動に対して否定的な意見を持ったとき、SNSによって多くの人が同じ意見を持っているということが可視化されてしまう。そのとき人は「多くの人が否定的な意見を持っているのだから、自分の意見は正しい」という想いを強くします。そうして、“正義”の名の下に見知らぬ誰かを叩くようになる。SNSが迷惑センサーの機能を強化していると言えるでしょう。
SNSはみんなでつながるためのツールのはずでしたよね……。
石田
進むべき方向と、逆の方向に進んでしまっていますよね。もちろん、つながりを生んでいる側面もあるとは思いますが、同時に多くの分断も生み出してしまっている。
「人それぞれ社会」も同じ構造になっていると思います。個人と個人の結びつきを強くするための「個の尊重」のはずなのに、結果的には人々を孤独にしてしまっている。狙いとは逆の方向に進んでしまい、それが大きな問題を生んでいるわけです。
皮肉な状況ですね……。
石田
自由はなかったかもしれないけれど、人々がしっかりとつながりを持っていた「古きよき時代」に戻ろうという意見が出てくる理由もわかりますよね。でも、実際に昔に戻るのは難しいと感じています。「いろいろな団体に所属しているものの、どこかで孤独を感じる」という悩みを持つ学生は少なくありませんが、みんないま手にしている一定の自由も捨てがたい、という気持ちを持っている。
だから、多くの人が人間関係に多少の息苦しさを持っているとしても、昔のような「家族関係はこうでなければいけない」「やがては結婚し、子どもを持つべき」といった価値観が支配的な世の中に戻ることはないと思っています。
「人それぞれ」に逃げず、対話をつづける
個を尊重するという崇高な理念を掲げながら、実際のところはみんなが「人に関与しないこと」によって、自らや他者の権利や自由を守ろうとしている。だからこそ、孤独を深めているわけですよね? つまり、多様性を尊重しようとすればするほど、他者に無関心でなければならない、という大きな矛盾がそこにあるように思います。
本来の「個を尊重し合う社会」とは、すべての人が自らの個性や意見をしっかりと提示しながら、自らとは相容れないものがあったとしても、それを受け入れ、共存していく社会であると前編でお話しいただきました。現状を打破して、理想の状態に近づくためには何が必要なのでしょうか?
石田
まず、現状を打破することは本当に難しいことだと理解しなければならないと思います。一度社会に定着してしまった考えや価値観は、よほどのことがないと更新されません。たとえば、個人情報の取り扱い。かつて、学校でもらう卒業アルバムには、卒業生全員の住所までが載っていましたし、個人情報を公にすることに対して、抵抗を持つ人は少なかった。
しかし、2005年に個人情報保護法が施行されたことをきっかけに、個人情報の取り扱いに関する考え方は大きく変わりました。いまでは、たとえ友人だろうが詳細な個人情報を求められると少し警戒してしまいますよね? ましてや、知らない人に個人情報を渡すなんて考えられないと思います。
仮に個人情報保護法がなくなったとしても、個人情報に対する考え方が、かつてのようなおおらかなものに戻るなんて、ちょっと考えにくいですよね。「人それぞれ社会」についても同じことが言えると思います。つまり、他者との距離を取り、そっとしておくことが「個の尊重」だとする考えは、ちょっとやそっとじゃ変わっていかない。
「個の尊重」という理念自体はよいものだと思いますし、社会としてそれを追求すべきですよね。でも、その理念が「他者との距離を取り、そっとしておくこと」に結びついていて、それは簡単に変わらないことだとすると、私たちはどんどんさみしくなっていく……?
石田
そうさせないためにも、個人レベルでできることから始めていかなければならないと思います。たとえば、「人それぞれだから」と言いそうになったとき、踏みとどまってみる。自分が理解できない考えに相対したとき、その考えを持つ相手を傷つけないためにも、あるいは自分が傷つかないためにも、「まあ、人それぞれだからね」と言いたくなる気持ちはわかります。
でも、この言葉を使ってしまった瞬間、対話は終わってしまうんですよね。だから、「人それぞれ」と言いたくなる気持ちをぐっとこらえて、「私はこう思う」「なんでそう思うの?」といったような、違う言葉を探してみることが大事だと思います。「人それぞれ」に逃げず、対話を続けることが、本当の意味で個を尊重し合う、多様性にあふれた社会をつくるための第一歩なのではないでしょうか。
「コスパ重視」では、個性も育たない
簡単なことのようにも思えますが、自分の言動を振り返ってみると、意外にハードルは高いかも……。
石田
それだけ、「人それぞれ」に慣れてしまっているということですよね。あとは、合理性を求めないようにすることも大事だと思います。
合理性?
石田
はい。ここ10年ほどで「コスパ」という言葉がしきりに使われるようになりましたよね。この言葉は、投資したお金や時間に対するリターンの大きさを示す言葉です。安く、おいしいものが食べられるお店は「コスパのいいお店」、少ない時間で存分に楽しめる遊びは「コスパのいい遊び」。コスパのよいもの、つまりは経済合理性が高いものが求められるようになった。
このことは、人間関係にもあてはまると思うんです。すなわち、多くの人が「コスパのよい人間関係」の中に閉じこもるようになったのではないかと思います。それがどのようなものかと言うと、初めから自らが持つ価値観や意見と一致する人たちとの人間関係ですね。
意見をすり合わせたり、議論をしたりする必要がないわけです。つまり、“無駄”がない。合理性というものさしで物事を測ると、「無駄かどうか」を判断せざるを得なくなってしまう。この傾向が、「人それぞれ」を加速させてしまったと思うんです。
合理的でない、つまり“無駄”な人間関係を「人それぞれだから」と排除してしまうようになった?
石田
そういうことです。新型コロナウイルス感染症の流行の影響も大きいと思います。なるべく人に会わないようにしなければいけなくなり、他者との関係を「対面で会う必要がある/ない」で分けてしまうようになってしまった。
でも、それでは本当に「多様性のある社会」なんて実現できませんよね。合理的かどうか、無駄かどうかなんて考えず、とりあえず会ってみる。対話を重ねることでしか、他者を理解することはできないと思います。
オンラインの接点だけで、誰かのことを理解するのは難しいですよね。
石田
それに、合理性ばかりを追求していては、自らの個性も育たないのではないかと思うんです。合理性を追求するということは、何かしらの問題が起こったとき、無駄を排除し、論理的に正しい道筋で答えに至ろうとすることに他なりません。「論理的に正しい道筋」って、基本的には一つしかないんですよね。つまり、合理性を追求しようとすると、みんな同じ道筋をたどることになる。
さまざまな問題にアプローチする際に生じる「無駄」が、結果的にその人の個性になるのではないかと思うんです。個性はいきなり手に入れられるものではありません。長い時間をかけて、それこそたくさんの余白を楽しみながらつくっていくものだと思うので、合理性ばかりを求めず、結果的には無駄になるかもしれないこともトライしてみる。その積み重ねが、その人の個性になっていくのではないでしょうか。
傷つき、傷つけることから逃げてはいけない
なるほど。たしかに、いまは「無駄」や「非合理」を排除しようとする傾向が強いですよね。
石田
他者との議論やぶつかり合いも、非合理的なこととされているように思います。いまの学生たちを見ていても、すべての意見に対して、なんとなく拍手して終わるといったような、表面上はやさしいコミュニケーションに終始しているような気がしていて。
それでいて、裏では気に食わない意見を言う人を、LINEグループから排除してしまうようなこともある。これは、教育する側の責任も大きいと思います。先生たち側が「教室からは衝突を排除すべき」といった考えを持っているからこそ、生徒たちは表では「人ぞれぞれ」に振る舞い、裏では衝突を回避しながら、こっそりと誰かを排除しようとしてしまう。
私は1990年生まれなのですが、中高時代から喧嘩をすることなんてほとんどありませんでしたし、目にすることも少なかったですね。親世代からは「昔はもっと議論をしていて、それが喧嘩に発展することもあった」なんて話もよく聞きます。もちろん、喧嘩することがよいことだとは思いませんが、喧嘩になってしまうほど激しく意見をぶつけ合うような場面が、もっとあってもいいのかもしれませんね。
石田
傷つき、傷つけることから逃げてはいけないと思うんです。傷を伴いながらも、はっきりと意見を主張し合い、その結果相手の立場を把握していく方が健全だと思います。そういったぶつかり合いを封じて、「人それぞれだから」と相手に立ち入らないようにするのではなく、「意見が違うのは当然」として、ときに傷つき、傷つけることがあったとしても、意見が異なる他者と共にあろうとすることが大事なのではないでしょうか。
意見の違いを表明することすら、はばかられる世の中になってしまっているじゃないですか。でも、「あの人の意見は理解できない」と表明した上で、一緒に行動しなければならないときは、意見の隔たりすらも内包したまま、共にあるようなスタンスを取るべきなのではないかと思います。それが本当に「個を尊重する」ということなのだと思いますし、そうしたことでしか、本当に多様性のある社会はつくれないのではないかと。
いまイメージされる「多様性のある社会」って、「誰も傷つき、傷つけることがない社会」といったものですよね。でも、たしかにいきなりそれを実現しようとすると、「人それぞれ」にならざるを得ない気がします。「多様性のある社会」を掲げたところで、立ちどころにみんなの意見や価値観が一致するわけではないですし。
石田
そうなんです。もちろん、誰も傷つかない「多様性のある社会」は実現すべきです。でも、いきなり完璧にできるはずなんてないんですよ。日本って、特に完璧さが求められる社会なんです。機械の部品をつくるメーカーなどでも「欠損率0%」を実現することが求められる。それはつまり、一つの失敗も許されないということですし、それを実現するためには厳しいルールと、徹底した管理が必要になる。
でも、諸外国に目を向けると、そんなことはなくて。これはあくまでもたとえなのですが、アメリカなどでは「欠損率が5%で部品が100個必要なら、105個つくればいい」といった考え方が主流です。
いきなり完璧な「多様性のある社会」を求めるのではなく、失敗や間違いも許容しながら理想の状態を目指していかなければならない。
石田
当然、悪意を持って人を傷つけることを許してはなりません。でも、人はときに間違いや失敗をおかしてしまうもの。それらを許容する社会にしていかないと、「人それぞれ」が加速し、私たちはどんどん孤独になってしまうのではないかと。
みんなが表面上のやさしさではなく、間違いや失敗、それによって生じる傷をもしっかりと受け止めるスタンスを持つことで、より柔軟で強度の高い多様性を持つ社会がつくられるのではないでしょうか。
[取材・文]鷲尾 諒太郎 [撮影]須古 恵 [編集]小池 真幸